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テーマ:教育問題(326)
カテゴリ:教育について
《以上教育改革論を概観してわかることは、いずれも教育改革の必要性については認めていても、教育荒廃がどこにあって、どこにその原因があるかということになると、少しも一致していない。そうである限り、教育改革は急いでやるべきではない》(加藤寛「教育荒廃の根源にあるもの」:世界を考える京都座会編『学校教育活性化のための7つの提言』(PHP研究所)、p. 57) が、一方で、このまま画一的な教育を続けていては、日本の将来は危うい。 問題は、戦後日本を覆っている「平等思想」にある。公教育は、平等に提供されなければならないという枠の中で、ああでもない、こうでもないと弄(いじく)ったところで、何の解決にもならないということだ。 教育の自由化を成功させるには、同時に、戦後日本の平等主義を改めることから始めなければならない。優れたものを刈り取ろうとする「水平化の鋭い鎌」(キルケゴール)を捨てなければならない。そして、「真の自由」を取り戻さなければならない。 《かつて〔昭和〕46年答申としてだされた中教審答申が尊重されているときくが、冒頭に指摘したようにそれは当然でもある。ちょうど46年、ニクソン・ショックで象徴的にいわれたように、日本経済の工業化がついにアメリカに影郷を与えるまでになったことであり、45年万博の成功によってそれが確認された時期であったからである。 しかし、高度成長に酔っていた日本は、転換の時代を必ずしも意識していなかった。他の多くの改革案とともに46年答申もついに消滅してしまった。 もし、その時からいくつかの実験・検討をしておけば、今頃はまさに教育改革への方針を明確に打ちだせたであろう》(同、pp. 57f) 教育改革が結局立ち消えになってしまうのは、平等主義が根本に存在するからである。教育が画一的となって、活力が失われてしまっているのは平等主義の所為(せい)である。平等主義がある限り、日本の教育の再生はない。 《今なし得ることは、大きな改革ではなく、以上、5つの教育改革論の根源にある問題を、1つでもよいから風穴をあけてみることであろう。ではそれは何であろうか. 第1は教科書問題であったが、それはつまるところ、教師がどのように教科書を利用するかということにすぎない。教師の教育問題である。 第2はエリート選抜の問題であったが、それは敗者復活の弾力化で対応できる。学校の多角化である。 第3は幼児教育の問題だが、これは、学校教育の補完である。 第4は道徳教育の復活だが、これも教師そのものである。 第5は公教育問題だが、「官主私従」の考え方を改めることである。 こうしてみると、この5つの教育改革論に共通している根源の問題は、学校間の競争がすすむ状況を作りだせば教師の意欲が高まり、それが教師の研修効果を高め、子供たちが教師を尊敬していく途(みち)だということである。 そのためには、高等教育はすでに学校間の競争がすすんでいるから、とりあえずは、小・中学校の競争をいかにすすめるかであろう。それには、学区制を自由化する措置を講じ、公立間の競争、公立・私立の競争を可能にすることである。 それによって、義務教育制がもたらしやすい、囚(とら)われた生徒の状態を変化させるし、年齢主義を課程主義に変えていくことにもつながっている。こうして蟻穴(ぎけつ)からすすめていくのが妥当なのではあるまいか》(同、pp. 58f) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.10.28 20:00:12
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