生前ご縁のあった
津村喬さん。
私が津村さんの文章を紹介させてほしいと
ご連絡すると
いつも
「どうぞどうぞいつでも使って広めてください」
といってくださったので、
たまに
ご紹介させていただいています。
気功や気養生の参考に
ぜひお読みください。
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地球感覚
自分を地球の一部として、ありありと感じたことがありますか。地球を自分の一部として実感したことがありますか。
日々の暮らしからすれば地球は大きすぎて、なかなか実感ができません。地球について語ることはある意味で流行になっていて、何か安直に聞こえることもあります。スーパーマーケットで「地球のための買物袋持参キャンペーンをしています」なんて言われると、こんなにムダなものを並べて大量消費をあおり、何時間かおきに新しいおにぎりを混んだりするために地球の空気を汚して、ビニール袋を惜しむことが地球のためだなどと偉そうにいわないでほしいと言ってみたくもなります。ヤシを使って手にもいい、水も汚さないので「地球にやさしい洗剤」だというにしても、ヤシの大量消費のために南太平洋の現地の環境が侵されているという以前に、自分のすべてが地球の一部であることを忘れて「地球にやさしく」したりできるのだろうか、と思ってもみます。
何か問題から目を反らすために地球という言葉が使われることがあまりに多いのは、母なる地球に対して失礼といわざるをえません。それなら「私は自分で責任を取れる範囲のことしかやれません」というほうがいっそ誠実であるようにも思えます。そうなのでしょうか。地球のためにできることはしている、と自己満足するためではなく、
これだけでいいのか、もっと何か変えられることはないのかと自分に問い続けるための闘いが果てしなく続くことを自覚するための相談相手として
地球の顔を思い浮かべるなら、それでいいとおもうのです。むなしい、言い訳めいた使い方も含めて、私たち皆がいつも地球に向き合って、地球大の感性を育てて行くためのレッスンをしている途中なのだと思いたいのです。
私の長年の友人であり、有名な気功の指導者であるチャン先生は、太陽黒点の変化を言い当てることができます。黒点の数が変化すると、地球上に一種の磁気嵐が生じて、それが特定地域の疾病の流行と明らかに対応していることが確かめられているので、太陽黒点の存在さえ知らなくても私たちの細胞レベルでそれに反応していることがわかります。気功で微妙な感覚を養って行くと、それが意識に感じられるようになる人もいるのです。当然にチャン先生はたくさんの磁気を出す新幹線があまり好きではないし、磁石のかたまりであるオーディオ・ビジュアル装置の前で気功状態になるのを嫌います。蛍光灯の下でやったりしてよく大丈夫だねと言われたりします。
そんなに感じたら苦しいでしょうに、気功というものは微妙な見えないものを感じて行くレッスンをともなっているので、そうやってどんどん感じて行くようになって、苦しむ場合もあります。禅の修行をしている人がある段階でニンニクやネギを食べると全身の気が通り過ぎて過敏反応を引き起して苦しむ場合があります。だから、お寺の門から匂いのきつい野菜や飲酒者は入っては行けないと書いてあります。心静かに呼吸法をしたいと思っても、弱って汚染された空気が普通の人よりずっと敏感に感じられて、ダメージを受けてしまうかも知れません。大気汚染が進む中で呼吸法をしてもからだが打撃を受けることがあると、呼吸法の教科書にはなぜ書いていないのでしょう。
世界に対して敏感になるということはその苦しみを引き受けることでもあります。ある程度敏感にならないと私たちは生きて行くこともできず、自分を救うこともできません。にもかかわらず敏感でありたいと願うのは、地球の苦しみに向合うことなしに、結局私を救うこともできないことを知っているからです。
やはり私のごく親しい友人であるリ先生は、古い道教の文献に従って雷の落ちている時に気功状態となり、実際に雷に打たれました。ふしぎにヤケドもせず、かわりに一定期間、触れる人の病気を治したり、近くの人の心が読めたりする特別の状態になりました。その時に、地球の心臓がとくっ、とくっと脈打っているのをありありと聞く体験をしました。地球のお母さんに向けて、彼はたくさんの涙を流しました。長いことお母さんのことを忘れて放浪していたのが、もう一度帰ってきたように思いました。特別の能力が失われてからも(今でも天と通じた状態になって自動書記の符を書き、いろいろな効果をもたらすことはできますが)お母さんのことを忘れたことはありませんでした。彼は生活のすべてを中国の環境問題を少しでも改善するための環境教育の仕事に捧げています。
地球交響曲という映画を見ると、私たちは自分のからだを通じて、ごまかしなしに地球のいのちを体験した人たちの姿に出会うことができて、感動します。とりわけ宇宙からの地球の映像は、はじめて自分の顔を鏡に映してみた人のように、自分の顔を外から見ることができました。その体験なしには、こんなにみんな地球について語り出さなかったでしょう。
でも、地球を感じるためには必ずしも宇宙空間に漂う必要はありません。
次の一瞬に私の中に呼吸によって入ってくる空気の一分子一分子が地球の一部でないわけではありません。私の毎日食べるものが地球から産まれたものでないはずがありません。それをただ自分の欲望を満たす手段としてではなく、天が何を語りたくて私に呼吸させているのか、地が何を訴えたくて私に食事をさせているかと自分にも問うてみると、当たり前のように見えることがどんなに不思議なことであるかが分かります。そのためには、心を静かにして、立ち止まってみなければなりません。
気功的生活とは、持続する祈りにほかなりません。
宇宙のはじまりからいっさいがなければ、私はここにいないので、私が自分に向けて手を合わせたら、宇宙全体に向けて祈ることができます。目の前に立つ一本のケヤキに向けて手を合わせたら、やっぱりそれは宇宙の全体に向けて祈ることにほかなりません。
地球を感じるために、呼吸を聞き、内面に灯をともして自分の中に入って行くこともできるし、外に出て人々と会ったり、木々にふれることもできます。何れにしても私といっさいは繋がっていて、ともに地球の一部だと実感し続けることができたら、私の絶望は地球の絶望の一部であり、私の希望は地球の希望の一部だと理解することができます。
気がついたからといって、何もかも解決することはできません。しかし、とりあえずそのために祈ることはできます。そしてそこから、もう一歩深く暮らしの質を変えたいと願うことができます。