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カテゴリ:物色動向を考える
1959年3月9日、社会党訪中使節団長の浅沼稲次郎が、「アメリカ帝国主義は日中人民共同の敵」と発言して国内ばかりでなく国外からも問題視されました。
この語句は、日米安保条約の改訂が中華人民共和国との国交正常化を阻むとの見解を示した演説中のものでした。 さらに浅沼氏は「二つの中国をつくらない」との語句で台湾の統合の黙認を示唆しました。 浅沼氏ら訪中使節団は北京で毛沢東氏と面会したのですが、この時期の毛沢東は政治的影響力が減退していた時期でした。 翌4月27日に劉少奇が国家主席になり、毛沢東は党主席に専念する事が発表されました。 日本国内では、日米安保条約への反対意見が大変強い時期だったようです。 3月28日には日米安保条約改定阻止国民会議が結成され、3月30日には砂川事件で米軍駐留は違憲とする東京地裁判決が出されました。 一方、浅沼氏のマスコミ活用のあり方に注目された人々もおられたようです。 「一日に五回、風呂に入ってくれ」のような新聞記者からの無理な要求にも怒らずに対応したからだそうです。 1960年10月12日、浅沼氏は衆議院選挙の応援演説中に17歳の少年に刺殺されました。 10月18日の池田首相は追悼演説中「目的のために手段を選ばない風潮を今後絶対に許さない」と宣言したそうです。 この刺殺事件は社会に影響を与えて「子供に刃物を持たせない運動」が起こるきっかけとなったそうです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.03.08 15:49:49
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