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カテゴリ:物色動向を考える
1973年3月13日、群馬の高崎線上尾駅で、国鉄労組の順法闘争に怒った乗客1万人が暴動を起こしました。
国鉄労働組合(国労)などの労働組合は、公共企業体等労働関係法第17条で争議行為、すなわちストライキを禁じられていました。 組合側は運転安全規範などの諸規則を厳格に遵守するとかえって列車の運航が遅延することを逆手に取り、諸規則を「遵守」することで労働闘争の手段とした順法闘争をたびたび行っていました。 1970年代当時、国鉄動力車労働組合(動労)は、国鉄経営陣に対して安全のため2キロメートル以上のトンネルがある区間と深夜時間帯の運転士を2人勤務にする事を強く要求していました。 2人乗務は蒸気機関車では必要ですが、当時は列車の電気化が進められていました。 動労は1973年2月1日から運転士2人勤務を求める第二次順法闘争をスタートさせ、全国で散発的に実行されるようになりました。 高崎線も3月12日から順法闘争をスタートしていました。 3月13日には上尾から上野間は通常37分かかるところが約9倍の3時間程度かかるようになっていました。 電車と駅のホームに人が溢れたので、上尾駅は午前8時頃に電車の運転打ち切りの旨をアナウンスしました。 これに怒った乗客らが駅舎や電車の窓ガラスを割ったりしたので、高崎線は全線不通となり、92名の負傷者も出ました。 旅客列車1200本、貨物列車2100本が運休し、乗客のべ8400万人に影響があり、輸送出来なかった貨物は約260トンを数えたそうです。 当時の国鉄では列車の運行状況に関する車内アナウンスを全く行っていなかったので、輸送障害時の対応に不備があったと内部からも指摘があったそうです。 4月24日には大宮駅で列車到着しない事に対する利用客の不満が爆発、再び暴動が発生しました。 暴動は首都圏の38駅に拡大して国鉄網は麻痺し、「首都圏国電暴動」と呼ばれる状況となりました。 乗客のべ600万人以上に影響があったとされています。 国労・動労のストは1975年のスト権ストの失敗で一気に減少しました。 全電連の書記長として公労協の代表幹事になっていた山岸章氏は、スト権ストの敢行の指示に当たって「力の論理では問題が解決出来ない事が良く分かるよう敢えて授業料を払うために強硬方針を貫徹させた」と朝日新聞のインタビューで語ったそうです。 順法闘争は、国鉄の収益にも変化をもたらしたようです。 これをきっかけに貨物は鉄道からトラックによる自動車輸送に振り返られていきました。 湘南新宿ラインは、貨物路線を旅客輸送に振り返る事で誕生した路線です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.03.12 20:36:02
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