テーマ:海外投資と国内株式(422)
カテゴリ:物色動向を考える
1970年4月30日、クーデターを起こしたロン・ノルの支援のため、アメリカ軍と南ベトナム軍がカンボジアに侵攻しました。
これがカンボジア内戦のはじまりとなりました。 当時のカンボジアの指導者シアヌーク国王は、ベトナム戦争には中立の立場を取りながらもベトナム共産党の指導下にあるベトナム解放戦線(ベトミン)の活動の黙認を続けていました。 シアヌークは、ロン・ノル陣営に対抗するためにポル・ポト率いる共産主義勢力クメール・ルージュと結んで内戦を仕掛けました。 ロン・ノル政府への人々の不満を背景に、中国からの大量の武器援助を受けたクメール・ルージュ軍は内戦を有利に進めましたが、50万人もの人々が死亡しました。 1975年、ベトナム戦争終結後にロン・ノルが失脚、プノンペンが陥落すると、ポル・ポトは原始共産体制を実施しました。 あらゆる生産手段を共有し、生産物を社会全体で共同に分け与える制度ですが、学校・病院はおろか貨幣すら必要ないとする、完全な自給自足を目指す体制でした。 子供は親から隔離されて労働所で働かされ、都市は必要ないとされて、プノンペンの住民は地方で肉体労働に従事させられ、知識人は隔離されました。 ポル・ポトにそむいたヘン=サムリン将軍グループはベトナムに亡命し、ホー・チミン以来ソ連との関係が強いベトナムは、これをを支援。 こうしてベトナム軍は、ヘン=サムリン率いるカンプチア救国民族解放戦線と共にカンボジアに侵攻しました。 この侵攻をきっかけに、ポル・ポト統治下のカンボジアで大量虐殺が行われた事実が世界に明らかとなりました。 病気や処刑で約170万人が死亡したとされています。 ポル・ポトは政権から離脱しましたが、タイと中国の支援を受けてゲリラとなり、ベトナム軍の支援を受けたヘン=サムリン政権に対抗したので、内戦状況は続きました。 1989年、ベトナム軍は5万人の犠牲者を出してカンボジアから撤退しました。 これはベトナム戦争でのアメリカ軍の戦死者数と同じレベルでした。 1991年、パリで国内4派による和平協定が調印されてカンボジア内戦はやっと終結し、カンボジアを統治する権限は国連に移行しました。 国連カンボジア暫定統治機構のトップには明石康氏が就任されて、国連監視下での初の総選挙が1993年に実施されました。 選挙活動中、日本から派遣された高田晴行警部補と、国際ボランティアとして選挙の広報活動を行っていた中田厚仁氏が妨害派に襲われて亡くなりました。 カンボジアは1998年にASEANに正式加盟を果たし、4月にはポル・ポト派支配地域での彼の死が明らかとなって、カンボジア国内は平定されました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.04.30 15:53:52
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