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テーマ:大東亜戦争(217)
カテゴリ:世界平和
今同じ医局の渡邊裕先生が書かれた「幻の大東亜戦争」という本を読んでいる。開戦前数か月の日米双方のやり取りが克明に描かれていた。
昭和16年8月7日、時の近衛文麿首相は事態打開のため野村駐米大使にルーズベルト大統領とのトップ会談を申し入れた。ルーズベルトは会談には好意的でアラスカのジュノーではどうかとの返答があった。しかし同じ日の野村大使とハル国務長官との打ち合わせでハル長官は「首脳会談で話がまとまらなければ重大な結果になるかもしれないのであらかじめ話を纏めておいて会談で最終決定にしたい」との意向が示された。 日米の大きな争点は日本がフランス領インドシナから撤退すること、日独伊の3国同盟から日本が脱退すること、日中間の関係修復に努めシナから日本が撤退すること等であった。何回かの話し合いで日本も何らかの解決策を示して首脳会談を10月10日か15日を打診しグルー駐日大使もその実現に奔走したが10月2日ハル国務長官の返答では諒解に達していないとして首脳会談を拒否してきた。 ハル長官からの返答を受けて10月12日に近衛首相は自宅萩外荘に東條陸軍大臣、及川海軍大臣、豊田外務大臣、鈴木貞一企画院総裁を呼んで協議した。各大臣の発言は 豊田外相「駐兵問題に多少のアヤをつければ妥結の余地がある」 及川海相「外交か戦争の岐路に立っている。期日は切迫している。その決定は総理にお任せする」 近衛首相「外交か戦争といえば私は外交をとる。戦争には自信がない。戦争となれば自信のある人にやってもらわなければならない」 東條陸相「現に陸軍は軍を動かしつつあり外交といっても普通の外交と違う。総理が外交と決断を下されても陸軍大臣としては盲従出来ない」 とのことで結局結論がでなくて10月14日に近衛首相は総辞職を決意した。そして次の総理は東条英機陸相と決まった。東條内閣も外交交渉を続けていたが10月21日東郷外相はアメリカの野村駐米大使に「新内閣も旧内閣同様日米国交調整に対する熱意は変わらない」との詳細な電報を打ったがそれは アメリカ側に傍受されていてしかも最後の所で誤読があってアメリカ側の要求は全て受け入れられないとの文面になってしまいハル国務長官の怒りを買ってしまった。 その後も交渉を続け日本の国務省極東部で検討修正が行われ中国や仏印からの撤退、三国同盟からの離脱も付け加えられて戦争回避の可能性も出てきたが11月26日日本が南方に向けて資材や兵員を輸送しているとの情報がアメリカ側に入りアメリカは暫定協定案をすべて破棄してハルノートを突きつけて交渉を決裂させてしまった。 何とか開戦は避けられなかったものか考えてみたが何んとも難しい経過だったのだなと改めて思った。作者は秘密裏に本来平和主義者だった天皇陛下とルーズベルト大統領の会談の場を作ったら避けられたかも知れないと書いているが、それも中々難しいことだったと思う。 注)ハルノート:開戦直前の1941年(昭和16年)11月26日にアメリカから日本に示された交渉文書で、当事者は米国国務長官ゴーデル・ハル氏 但し書きがありアメリカ議会の承認を得た物でなく、ハル氏の覚書であるとのことでハルノートと呼ばれるようになった。野村吉三郎駐米大使、来栖三郎特命大使とハル氏の会談後に手渡されたが内容は日本側主張の殆どを無視した高圧的なもので野村、来栖両大使は執拗に反論したがハル氏の態度は取り付く島がない様子でその報告を受けた日本の首脳部は怒り、一気に戦争に向かうことになってしまった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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