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テーマ:宮沢賢治(13)
カテゴリ:読書
宮沢賢治は1993年(昭和8年)9月21日に喀血(結核)して37歳で亡くなったが、亡くなるまでに実に多くの詩や童話を書いており、いくつかの作品を自費出版しているが全く注目されていなかった。
亡くなった翌年の1934年2月16日にホテルで賢治を偲ぶ会が行われた際、賢治の弟、宮沢清六が賢治から託されたトランクを戦火を免れた蔵から発見して持参した。 トランクの中に賢治が使っていた黒い手帳があり、その中に雨ニモマケズの詩があり、それを回し読みして多くの人達の心に残り、地元の新聞にも紹介されて、一躍、宮沢賢治の名が広がったと言われている。 賢治の作品は難解なものが多く、雨ニモマケズが見いだされなければ、ずっと誰にも知られない無名作家で終った可能性が高い。雨ニモマケズはカタカナと漢字で平易に書かれており、大人から子供まで誰にも理解できる内容で、社会に受け入れられ、それにつられて難解な他の作品も次々に宮沢清六等によって出版され、多くの人に読まれるようになった。 いわば賢治を世に出すきっかけになった作品だがいつどこでどのようにして生まれた作品であろうか。 賢治は盛岡高等農林卒業後東京に出て法華経の国柱会での活動をするが、妹の病気の看病で郷里花巻市に帰り花巻農学校の先生になった。先生をやりながら理想の花園農村建設を目指して、羅須地人協会を作って活躍するが、共産主義的活動だとして官憲に見張られるようになり、羅須地人協会を辞めて東北砕石工場の技師兼営業マンとして働いてた。 雨ニモマケズの詩を書いた手帳の日付けが1931年(昭和6年)11月3日になっていたが、その頃は病気で東北砕石工場を休んで自宅で場闘病中だったと推察されている。 雨ニモマケズの最後はソウイウモノニワタシハナリタイで結ばれており、そういう者にまだなれていない時に死に見舞われてしまい、志半ばで無念の死だったように思われたが、死後、雨ニモマケズが発見されたおかげで志を遂げたのではないかと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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