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テーマ:暮らしを楽しむ(388284)
カテゴリ:家族・一族
10歳になる孫娘はお正月の1日から10日まで、我が老夫婦の家に滞在し, その内3日の夜から8日の午後娘が迎えに来るまで1人で我が家におりました。 両親は働いているので、せめてこの期間だけでもじじ・ばばにあずかってほしいとの娘の 依頼で預かっておりました。 親元を離れてもこの程度の期間であれば何とかやっていけそうです。 ★ たった一つ出来ないのが、夜,1階の日本間で一人で寝られないことです。 そこでじじが、隣の布団で添い寝をするのが近年のしきたりとなっております。 3日(月)夜 今日もテ-マ 光秀と信長のこと 4日(火)夜 引き続き光秀と信長など歴史的物語 5日(水)夜 四文字熟語について 6日(木)夜 じじとばばの結婚年齢について 7日(金)夜 いろいろ ( 毎晩一緒に入る風呂などでもヒョコッと質問がでます) さて本題に戻ります。 ★ 1月3日夜、寝付くまでの間、どんな話になるか? と思ったら。 "光秀はなんで信長を殺したの" ズバリこの質問だった。 ★ 驚いた。 本かテレビでの知識らしかった。 が、うやむやには出来ないので、出来る限り真相と思われることを話しました。 この間までは、昔、昔、ある所におじいさんとおばあさんが居って、ある日おじいさんは 山へ柴刈に行きました。 なんて話で、途中で字句を間違えると、孫「おじいちゃん、そこは〇〇だよ」 なんてなのが落ちで、許してもらっておったのですが、10歳ともなると急速に大人への 準備に入ったと思われます。 ★ さて 【何故、光秀は信長を殺したか?】 ★ 1582年、天正10年 本能寺で光秀の軍勢に攻められて、織田信長は切腹して果て ている。 ・・・で、孫に対して 明智光秀はもともと優れた織田信長の家来であったこと 織田信長は、室町幕府が崩壊して不安定になった世の中を住みやすくするために、 沢山の優れた家来を育てたこと その中で、明智光秀は大変有能であったが、仕事の仕方が次第に「信長と合わなくな って叱ら れたこと。 あまりにも織田信長の要求がきつ過ぎて光秀は耐えられなくなって、ついに織田信 長 を殺してしまったんだよ ・・・ ひとまずはこんな説明を行った。 ★ 過去に、戦国時代について質問があり、世の中が変化していく中で、リ-ダ-が 統 治しきれなくなって、各地に様々な集団が居て、お互いに相手を倒していたのが戦国 時代であると説明しておいた経過がありましたので。 ★ そこで、今回、織田信長の時代は、それまでの古いしきたりや宗教などを克服して新 しい時代を作る要求が、世の中で生まれてきたのに、信長は信長流で応えようとした ★ 光秀は、羽柴秀吉が率いる集団に負けてしまったが、昔のやり方では、もう、どうに もならなくなった社会の潜在的な声に対して、理解できていなかったので羽柴秀吉集 団に負けてしまったのではないか。 光秀に対して反乱を勧めたとされている貴族近衛前久は、信長の勃興期には信長と 共に改革を推進した1人だとされておりますが、途中から信長について聞けなくなっ たとされているように、信長や時代の変遷について行けなくなった人々が大勢出たの もこのころだと思います。 ★ 「信長流」に古い社会をぶっ壊して、新しい統治体制を作ろうという運動も、ある 点までは受け入れられてその支持も増えたが、残存勢力の燃え残っていたエ ネルギ-に"たぶらかされた"光秀軍団にストップをかけられたともいえるよう だ。 ★ 孫娘にも伝えました。 1. 結局、世の中が新しい統治体制として受け入れたのは、豊臣政権の後の徳川幕 府だったこと。 2. これも現在の日本の政治、特に、首相が短期間で交替することについて、孫から なんで? の質問があり、これまでの寝物語で二人で会話したことが頭にあった からです 小泉首相の後、安倍→福田→麻生→鳩山→菅さん 5人目であること 3. 個人の指導能力如何もあるでしょうが、1945年以降の日本の政治・経済の発展 と変化の中で、現在、国を挙げて新しい体制を模索しているので、首相もなかな か安定出来ないのではないか。 4. それが戦国時代の持つ意味であり、織田信長や明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康 などが出てきた過程をたどって行くのではないか? そこにその意味と似通った姿がかんがえられはしないか? ★ ざっとこんな話をしました。 とても単純に光秀が信長を殺したなんてことは、決して言ってはならないと思いました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年01月18日 11時21分20秒
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