5月18日(金)
豊中稲荷神社参詣の際、「隋身」さんが拝殿内部の左右に控えていて、神域またはご神体の護り任務に就いている姿に接しました。
右大臣(右大神とも書かれる)
お雛さまの場合も含めて、若い武人の姿。口髭が黒い
上着は赤色。
矢大臣とも表現される事のある話題性に富んだSPです
左大臣(左大神とも書かれます)
右大臣どうように、お雛さまの場合も含めて、年の行った武人の姿をとります。
頭髪、口ひげ共に白い。上着は黒(一番上位者の着る色)
ここでは白髪交じりの感じですね。
何時もと同じように注釈;
神社では、ご神体が分から参詣者の側を見て、左右を指す。
従って、上位者である黒衣の武人は、左側(我々から見て右側)左大臣
次の位になる若い武人は右側(我々から見て左側)右大臣
隋身さんが出現した背景:
仏教の興隆、寺院の隆昌に伴い、仁王門が人々の目に強く印象付けられたことでしょうね。
その対抗的な意味で、神社では、隋身門を建てる方向で進んだ。
仁王さんに相当する者として、当時、貴族顕官の警護官であった「隋身」さんを置いたと言い伝えられております。
三田市:天満神社の隋身門
隋身門以外の場所に隋身さんがいる例:
確かなことは分かりませんが、全国的に見た場合何例かあるようです。
また、この稲荷神社の如く狐の置物が傍にある例もあるようです。
今年お正月に篠山市の春日神社を参詣した際、隋身門に気が付いていらい
三田・天満神社
酒滴神社
駒宇佐八幡神社
菅原神社 (堺市)
大阪天満宮
で隋身門を見て来ました。大きな意味で隋身さんの古例に従っておりました。
しかし、この豊中稲荷神社の如く、拝殿の中に置かれていても、そこに何かの歴史的意味があっての処置でしょうから、そのまま拝見できました。
当神社は、荒木村重の反乱に手を焼いた織田信長公が、この豊中の神社・仏閣を焼き払ったため灰塵に帰した後、慶安4年(1651年)再建された。
さらに320年後の昭和45年(1970)再建。
このような大きな出来事に伴い、隋身門の存在も難しくなったのかもしれませんね。
ここに述べてきたようなことは、ネット検索なども含めて書いていることですが、立派な隋身さんが、綺麗な姿であったので嬉しくなりました。