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三田のいのしし 見て歩き日記

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2018年02月15日
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テーマ:生涯学習(293)
カテゴリ:広く・深く・学ぶ

2018.02.02 

上野郵便局の横から入り、上野の辻から右に折れて下り、三輪神社の前を歩いて県道の三輪-

後川線を城山運動公園の方に戻り友が丘に帰った。

来迎寺に立ち寄った。久しぶりだ。



来迎寺は、ライゲイジと読むのは普通なのに、何故か「ライコウジ」と読むのが正しい!

そうなんですね。同じライコウジの読みで全国的あるらしい。

何故か?

7世紀ごろに全国に展開した一国一国分寺制度と一郡一来迎寺制度が大和朝廷の威信にかけて

立ち上がったのがもとで、今、三輪にあるのが有馬郡(元とも有間郡)としての来迎寺である

野か不明ですが、「ライコウジ」の読みが正解だったんですね。ヤレヤレ!

前項に続き、来迎寺とその建築物の様ざまの内にいくつかを撮影したが元々その素養が無い

のでHP「斗拱・蟇股・木鼻のお話」の情報を参考にしながら学んでみたい。

で、今回この来迎寺に立ち寄る気になったのは、様々な神社・仏閣に見られる「海老虹梁」が

このお寺さんにも見られるだろう…そんな推測に基づいていた。在りましたよ。

 

立派な海老虹梁(エビコウリョウ)

大きい建屋なので海老虹梁も大きい。そのせいかあまり凝った細工は見られなかった。

梁(はり)でありながら、虹の形をしていてしかも「海老」がはねたように見える・・・

そんな意味でこの命名となった建築様式だろうか?

その辺にあるほとんどの神社の敷地内末社の「祠」もその多くがその軒先を海老虹梁で繋いで

おります。

参考 

来迎寺(ライコウジ)の木鼻(キハナ)と象鼻とは:

象鼻 木鼻の進化した形か、その発展した形の一つだろう。


多分中央の物が「象」であろう、似ている物に「獏」、「獅子」があり、素人にはにわかに
断定でき
ない。
たぶん象だと思う。左は木鼻か。右下に見えるのが「海老虹梁」で、この梁が軒の柱
を貫いて

出た部分に木鼻がある事も分かる。左右と正面に木鼻が付く。

この像も口を開いており、阿形狛犬と同じ阿形の彫り物らしい。

市内上槻瀬 ”大歳神社の象” 鼻の例 同じような向拝の例


向拝の柱の右側側面に木鼻で、象が口を開いた阿形の形が多いそうです。

向かって左側には吽形の木鼻が飾られるのが通例らしい。歴史が古い例です。

来迎寺の木鼻 象に戻る。
そもそもこの木鼻が何故生まれたのか、大発展をとげたのか。

今回の見学を機に資料を調べましたら、古代中国から仏教が入ってきて大型建物のが普及

する中で、この柱の組み立て方が飛躍的発展の元となったらしい。⇒貫

その後、「貫」による木組と言う大革命がもたらされて今日に至ったという事らしい。

簡単に言えば、2本の柱を立てて安定させるのに柱に穴を開けて、梁を貫通させるやり方。その

両端を出して止める。

その両端を木鼻(木の端?)と呼び、切りっぱなしから細工を施す形に変化したものだろう。

中国でその飾りが出来ていて、日本にも導入され、発展していったのではないだろうか?

擬宝珠

素人判断ですが、この形も五輪の塔や宝篋印塔などから発展したのだろう。

五輪の塔  擬宝珠の源はこの五輪の塔かもしれない。たぶんそうだと思う。

ウイキペディア所蔵の物をお借りしました。

車瀬橋の灯明塔


比較的近年の造営でしょうが、五輪の塔、宝篋印塔、擬宝珠と同じデザインが見られますね。

一般に橋の袂には、来迎寺の橋掛かりに見られる擬宝珠が設置されておるのはお分かりでしょうね

また


お庭には宝篋印塔が祀られておりました。


礎石に左側には「延享五戊辰年」三月  石大工 0000 とあった。

延享5年は7月に改元、寛延元年となっているが、十二支で「戊辰」の刻印からこの宝篋印塔は

同年に制作されたとの推測が成り立つように思われます。

また2段になっている塔身に、一香一華・・・云々の文字も見られますが、「一切如来心秘密

全身舎利宝篋印陀羅尼経」のこの経を写経して塔中に置けば、この塔は卒塔婆となり、この塔に

一香一華を備えて礼拝供養すれば、一切の重罪が一時に消え、生きている間は災害を免れ、死後

は必ず極楽に生まれ変わるとの功徳の教えから始まったとされている。

資料 「興福寺(三田市)の忠誠石造実術」から引用させていただきました。

尚、塔身の上段は四面に種子(シュシ)が刻印されております。

隅飾(四隅の耳)部分 拡大 2018.02.09


丁寧に作られている印象です。

年代は今の所不明ですが、隅飾がやや開いているように見えますので、やや歴史は新しい物に

見えます。⇒ 後日の再訪で延享五戊辰年三月 1748年と思われます。

参考までに三田市内で現存する宝篋印塔の古い例として「三田市高齢者大学」で学んだ市内の
興福寺に祀られている宝篋印塔の写真を載せます。

「隅飾」があまり開いていない。兵庫県重要文化財(昭和48年、1973年)だそうです。

もっと古い、「隅飾」が直立した例をネット検索しました。 米原市

徳源院の宝篋印塔群 十八基の内の例  右の例は隅飾が直立している感じです。


隅飾が見事に直立している。近江源氏 佐々木京極氏墓塔 18基の内、2基。

あくまでも「隅飾」が直立した例であって、年代の比較などの例ではありません。

(HP  「ほあぐらの美の世界紀行」の「石造美術巡拝」からお借りしました。  

参考までに市内のお寺、興福寺の宝篋印塔の写真も併載させてもらいましたが隅飾の角度が

埋蔵時代の推定根拠の一つらしい情報が見られたので載せました。

なお余談ながら、豊中の大応山 金禅寺の三重宝篋印塔は「国指定重要文化財」とか。

今のご本堂はいつ頃建設されたのだろうか?木組みの新しさから疑問がわいた。

昭和58年(1983年)でした。今日までの歴史は様々な試練の結果のように見受けました。

随分新しい?と思っていて、ネット検索(2月9日)してみたら昭和58年(1983)本堂と庫裡が

新設されたらしい。納得。来迎寺とは・・・末尾にネット検索結果を付記します。

来迎寺(ライコウジ)とは  : 
インタ-ネット検索、Wikipediaによります(要約)と

1.大化の改新、大化2年(西暦646年)の頃、国と郡の制度ができた。

2.また、その方針に従い、一国一国分寺、一郡に一来迎寺が建設されたとあります。

3.したがって、全国に来迎寺が残っているのもうなずけますね。

4.この三田市三輪の来迎寺(らいこうじ)がその後身かどうかは不明。

6.元来真言宗であった。後に禅宗の「曹洞宗」になって今日に至っている。

現在の本堂の建設年代

昭和58年(1983)

白衣観音像立像  平成元年9月建立。山門の手前で右側。

  

全国の来迎寺について

   1. 例 奈良県桜井市 1597年 創建

   2. 寺院名辞典(ネット検索)

          すべての来迎寺が網羅されているとは思えませんが、それでもかなりな数の存在が

          わかります。

    3. 読みの違い 「らいごうじ」

    4. 宗派 一定ではありません。 

〇 § Δ
あとがき:

宝篋印塔とは:

1.元来、仏教の開祖 お釈迦様のご遺体を8つに分けて分納した施設(石造?)

2.そのうちの一つを開いてそのご遺骨を細かく分けて、広く世界に祀り収めた。

3.そのお経の一つ「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経」を写経して納めるとこの塔が

   卒塔婆になる。

   つまりお墓になり、普及した。

そんな経緯があるらしい。

近年、宝篋印塔により埋蔵されたお墓らしい施設に三田市内で出合いました。

また、五輪の塔による埋葬施設に出合った事もあります。

◎ ◆ 〇

 






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最終更新日  2018年02月15日 10時13分59秒
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