☆ 1年生、2年生、3年生の3グル-プに分割、講師は「さんだガイド塾」のみなさ
ん 9人が3班に分かれて応援してくれました。
☆ 13:30~16:00ごろまで
☆ 我々3年生は高齢者大学も含めて6年目でこの3月に卒業ですから、きっと何方
の頭の中は、何がしかの感慨が浮かんだことと思われます
☆ 最初は、畑中(大歳神社境内)の「八頭稲荷」さん
写真の左横は大歳神社の拝殿、手前には狛犬がいる。
狐の狛犬さん
民話 「のんのんさん食べなはれ」
昔、神仏混淆時代のころでした。
大歳神社の側に方仙寺があり、食べ物に困って悪さをする狐退治を求められた
お坊さんが言うことには、おはぎと油揚げをこの八頭稲荷の周りに置くことで
防げるとヒントをくれ、実行したら見事に収まった話。
「のんのんさん、食べなはれ」「のんのんさん、食べなはれ」「のんのんさん、食べ
なはれ」と3回大声で唱え、後ろを振り向くなよ・・・と教えたそうだ
下の写真のお地蔵さんに関して、ご説明があったので、独断でご紹介します
大歳神社の裏手にもお地蔵さんが安置されている。
2011-04-17撮影 ご婦人が堂内を清掃されていた。
ここも地蔵盆にはしっかりお祭りがされるとおもいます。
ここにも昔の道路があり、地境出ったのでお地蔵さんが置かれた。
☆ ついで寺町に向かい、西方寺、妙三寺、正覚寺などを巡り解説してもらった。
その途中ではこべ(はこべら)が溝の中で咲いていたので、ちょっと一休みして
撮影させてもらった。
ハコベ
あまりにも小さな花なので誰も見てくれまえんが、虫たちはきっと動いている
はずです
民話「西方寺の阿弥陀様」 省略
民話 「迷子になった墓石」 省略
民話の元になっているのが、以下の事実に基づいているようです
正覚寺では、九鬼家が徳川三代将軍家光公の時代に三重県から三田へ移転
を命じられたさい、移動のどさくさで九鬼家ご母堂の墓石をこのお寺へ泣く泣く
納めたいきさつがある。
(曹洞宗の心月院が九鬼家の菩提寺であるが・・・ご母堂のみここ)
余談ですが、徳川幕府は九鬼水軍の能力を恐れたんでしょう三重県からの
移封に当たって、2藩に分けて、場所も切り離している。
もう一つ、徳川幕府は、大名の移封を沢山行っているが、その度に各家は祖
先の墓を掘り起して、墓石ごと荷車へ積み引っ越しを行う悲劇がその度に
生じたらしい。政治は非情だという1例でしょうか
この正覚寺の九鬼の殿様のご母堂の墓石とご遺骸が菩提寺以外の葬られ
た悲劇もそんな移転騒動が原因でした。
妙三寺 日蓮宗のお寺さんです。
門上の鬼瓦 あまり大きな門ではないので、かえってその迫力が分かる、
門の上の瓦です。日蓮さんもこんなお顔でしょうか
日蓮宗のお寺です。
詩人三好達治が幼年時代祖母と過ごしたお寺です。
☆ 旧九鬼家(ご家老のお宅だった)住宅資料館
この建物は、持主であるご家老が自ら設計図を書いて建てた和洋折衷の
建物で、2階の手すりなど明治初期とは思えない斬新な建物で器用な存在
らしい。
☆ 三田ふるさと学習館
地味な存在ながら、昔の遺物が並んでいた。
☆ 昔の街道を巡りながら、昔の武庫川の話、水に困った話などを教えてもらった。
6年間通った三田町に関して何も知らなかった事を知ったのも収穫だった。
そんな感想がぴったりで、初めて歩いた小道が昔の道路で、さして広くない三田
町でもいくつもの通りがあることを初めて知った。
町屋は共同井戸を掘り利用したが、日照りの年などかなりご苦労をされたらし
い・ 武庫川の対岸にある三輪神社の湧水が三田一の美味しい水として
評判だったそうだ。
三輪神社の井戸
秋祭りの前日、御神楽も井戸を祈って舞っていた。
2012-10-06
三田町界隈からは1km以上離れているとおもいますが、美味しい水を求めて
ここまで来られた方もいたかもしれません。
☆ 民話「子授け地蔵(相生町)」
お話と写真は省略
どうしても子供がほしいところから生まれた民話で、お地蔵さんが大活躍
するお話。二つの大小のお地蔵さんは何を意味するのでしょうか。
☆ 京口のお地蔵さん
文字通り京・大坂浪速へ通じる道の角で、その町境にお地蔵さんが立ってい
て、来る人出かける人の安寧を祈ってくれたらしい。
お地蔵さんの前には道路標識が立っていました。
左 神戸・有馬・大坂 左 はりま三木道 と彫刻されている
但しこの標識は当時の物ではなくて、その雰囲気を知らせる後世の作とか。
昔はどの街角にもお地蔵さんが居て住人の尊崇を受けたと言う事だった。
上述の相生町の例を含めてこの界隈には4か所お地蔵さんが建立されているら
しい。
現在三田町と言われているこの町も昔は鍛治町とかいろりろあったらしいが、
その面影はこんなお地蔵さんやお稲荷さんの小さな祠がr沢山残されていることで
理解できそうだ。
大勢の者が屋外で聞くので、ガイドさんのお話も十分理解できたか自信はありませ
んが、大きくわかったことはお地蔵さんのある所はたいがい田畑で、町と外の境で
あったことをガイドさんが強調された。
今はすべて市街の中ですから、その分町が発展したことになるわけです。
朝は雨が降り外出が心配されましたが、このような足元の出来ごと、遺物に接して
可なり有意義に感じた一日でしたし、6年間の締めくくりとして良かったと感じました