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テーマ:暮らしを楽しむ(388274)
カテゴリ:広く・深く・学ぶ
この回の前に神社とお寺を結ぶ史跡として貴志御霊神社の種子(シュジ)のキヤ(または キャ)の謎を取り上げて悪戦苦闘し、悶えました。尚、種子キヤは「十一面観音菩薩」様。 梵字や種子をしいて見ようと思えばお墓に建てられる卒塔婆にお坊さんが書き込むので しかし、どなたもそれに注意を払うことは無さそうです。 今となってはそれ以上に非日常的になったのがこれから述べようとしている「別当」です。 さて: 何故 今頃になって別当の事にこだわっているか、気になったこと 1. 大原の大歳神社の掲示板にこの神社の別当は福島村の世応山晋門寺であった と明記されている。 2. 貴志御霊神社チラシに「社坊金性院・・・」と明記されている。 3. 境内でも拝殿右に大きな灯篭があり、社坊金性院からの寄贈が明記されている。 4. 明治2年(1896年)に廃寺になった金性院など別当寺は、明治初頭の廃仏毀釈 で形の上ではなくなっていても、21世紀の今でもこれらの二つの地域の人々は 別当の事は忘れていないと思われる。 ◎ ◆ 〇 これらのことを踏まえて、別当について考えてみました。 別当 終戦後(昭和20年(1945)プロ野球が復活した時代に別当薫さんと言う強打者がいて 有名でした。このお名前から「別当」という熟語を記憶している方が多いはずです。 さて: 1. ヤフ-の”知恵袋” にて、別当についてあった質問への回答例 明治の神仏分離、廃仏毀釈までは、大きな神社では境内の中に仏教寺院か小社を建て ていました。 権現などは神仏習合で祭祀されていて、合同で祭祀されたりしていたわけで、こうした 2. 大歳神社も御霊神社も別当寺を境内に設けていなかったらしい。 大歳神社 福島村の世応山晋門寺がこれに当たり、今は廃寺のようです。 3. ある別当がいくつかの神社の別当を兼職できたかどうか、疑問ものこる。 ◎ ◆ 〇 あるHPかブログの記事で読んだ情報ですが、神社のお祭りなどの行事において神主さん に並んでお坊さんがお経をあげた居たらしい。 少なくとも徳川幕府の時代においては、煩わしくても村々はこの制度に慣れて神職と僧侶 が行事を務める事を仏教が日本に渡来して以来の長い間のやり取りの中で受け入れていた。 また徳川幕府の住民管理の制度的な命令として受け入れざるを得なかったのではないだろ うか。 ◎ ◆ 〇 時代小説に現れた例 鬼平犯科帳 大活字文庫(五) 女賊 ・・・正面は、牛天神の門前町であった。「牛天神」は、北野天神ともいい、別当は龍門寺 で、むかし北条氏康がこの地に菅公を祀ったのがその由来であるそうな。・・・ このようにごく自然に記述されている。 それだけに神社に繋がるお寺さんの存在がありきたりになっていたことが伺われる。
◎ ◆ 〇 市町村役場の業務をお寺が執行する制度になった。 住民はすべていずれかの寺院の信者として組み入れられた。 ◎ ◆ 〇 元々別当とは、遠い大昔から朝廷などで主たる命令系統の責任者がいる組織がありながら 別の物がその組織を管理する場合、これを別当と名付けていたらしい。 その習慣が様々な組織、様々な時代に応用されて活用されたらしい。 例えば、当地でも三輪神社は奈良にある三輪神社の末社であるが、ここも別当が管理した と思われます。 存続したお寺であったらしいことが分かった。 ◎ ◆ 〇 大歳神社の掲示板 再建され、本殿は貞享4年(1687)建築の記録であることが分かる。 貴重な時代考証だと思われる。 ここまで書き込まれている例も少ないので大事にしてほしい。 貴志御霊神社のチラシ 明治2年(1869)社坊金性院廃寺の時、旧記等みんな散逸してしまったが云々 ・・・この社坊と言う言葉が別当を意味していると思われる。 貴志御霊神社の灯篭に見られる金性院の文字
左側に金性院の文字が陰刻されている。(金生院とも読めるが) 元禄15年はその12月に赤穂浪士が吉良上野を襲い復讐を成した遂げた年でもある。 元禄15壬午(ミズノエウマ)と刻印されているように見えるが、字がやや崩れてはっき 大化の改新を実行した藤原鎌足のお子さんで中国のお寺に留学された方が、開いたお寺 金心寺は今の三田町の辺りにあったが、現在は別の場所にあって往年の大寺としての 面影はない。 しかしながらこのお寺に御霊神社の社坊という「金性院」の資料などが収納されている らしい。 御霊神社のチラシに「・・・明治2年(1869)社坊金性院廃寺の時、旧記等みんな散逸 してしまった・・・ この事は逆に言えば金性院が御霊神社の資料との管理まで行って いたことを物語っているだろう 一度訪問してその辺も聞けたら聞いてみたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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