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テーマ:暮らしを楽しむ(388255)
カテゴリ:広く・深く・学ぶ
2001年秋、方広寺の紅葉などを観賞する機会があり出かけた際だと思うが、この観福寺 の山門とその中で頑張っている仁王様の写真が見つかった。
吽形の仁王様だろうか 同時に掲示板の写真も撮っているので、直接このパソコンの中でも別当寺であったことが 理解できたが、悔しいのはその境内の様子も撮影したはずだが、写真が見つからない。 すくなくとも、なぜ山門の写真がそこにあるのか? 山門と言えば背が高い瓦ぶきの屋根を載せた高層の建物だあり、入口の両脇に仁王様が 身構えているという通り相場に対して、茅葺という異例の姿だ!! ◆ 〇 ◎ 1. 観福寺の掲示板記載情報 末尾に・・・別当寺であった。とある。 2. 三田観光の記事 「三田市 観福寺の仁王門」 法導仙人の開基、中世においては高平庄一帯の別当惣寺として七坊の塔頭を持つ 大迦羅 (大伽藍の誤記だと思う 私)であった。 相次ぐ兵火に焼失し昔の面影はなくなったが山門と典籍の一部残存している。 ・・・・・ 〒669-1403 三田市川原433-1 TEL 079-569-0480 高平地区(郷)に多くの集落があり、そこに鎮座する神社と住人が仏教徒であるとする管理 勿論この推論の裏付けは今はありませんが、7坊もある大きな組織のお寺であり、その結構 が、”大伽藍”であった様が伺われます。 観福寺が高平庄の別当惣寺であった…云々について、惣と言う文字に出合った。 熟語の理解: 惣寺とは 世界大百科事典 第2版の解説そう【惣】中世の自治的な組織の総称。特に村落共同体の運営機関としての惣が代表的である。惣の字は〈すべて〉〈全体〉の意味の国字であるが,中世には自治的な団体や地域 に冠して用いることが多い。例えば惣国,惣郷,惣荘,惣村,惣百姓,惣寺(山)など の語があり,それぞれの単位で寄合を持ち,その寄合の構成員の総意によって事を 決した。そして中世後期には,その団体や執行機関自体を惣と呼ぶようになった。 農村の百姓による惣結合は,領主支配に対応して,まず荘園を単位として形成された。 ◆ 〇 以上は「 世界大百科事典 第2版の解説」 お借りしました 長いですが、中世の日本を理解し、知るために有効だと思います。 中世において高平庄は、三田が所属した有馬郡の一部ではなくて川辺郡の一地域であり 宝塚や池田その他の道路などを経由して京都、大阪と繁々と繋がっていたし、地域そのもの が繁栄していたと思われますね。 ◆ 〇 ◎ 1. 今回のご紹介は高平庄に観福寺と言う別当惣寺があったという事実のご紹介が主であり 別当や惣寺の役割、仕事ぶりの理解はこれからです。 2. 江戸時代には麻田藩のあった地域でもあるから有馬郡ではないが、神社なども含めて 宗教や個人の信仰を把握した別当という制度は、どの藩であっても共通した制度であった と思われます。 ◆ Θ ◎ 資料: 「北摂 続 羽束の郷土誌」 西村 忠孜(ただし) 1. 15ペ-ジの記事から 観福寺宝殿上棟棟札(寛文七年、1667年)に摂州川辺郡多田庄高平惣集寺と 記されている。 2. 同 上 邑(ムラ 私)光明山観福寺・・・の文中に、多田庄や高平郷の文字が見られます。 Θ ◎ ◆ 別当の意味、役割などの理解に取り掛かったら、様々な言葉に出合いせっかくなのでそれら もご紹介しながら別当と言う言葉について理解を進めていきたい。
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最終更新日
2016年02月21日 06時26分54秒
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