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カテゴリ:歴史と世の中の成立ち
別当(別当職)が居た神社とお寺の関係について 初めに : 三田市内で普段に見られる「別当寺」の言葉の例 大原、割烹がんこ横の大歳神社と掲示板 大歳神社 掲示板 ここに当社の別当寺は「これは福島村の世応山普門寺である」と貞享四年(1688年) (貞享元年~四年)再建時の棟札にかかれている・・・との文字が見える。 再建年代が「貞享四年」と掲示されていることはごく普通に理解できるが、一般に馴染 まない「別当」と言う言葉と普門寺と呼ばれる名前を表記されているところに、現代の 住民の方々の様々な感情がにじんでいるように感じる。 また、貴志の御霊神社には別当寺が寄進した門燈が複数拝殿入口に目立つ。 神社と別当寺と住人の気持ちの複雑な関係を示す歴史的な遺構とも考えられるかもしれない。 今わわからないことだらけなので、ここで深入りできないが奈良時代から別当職がありそう なので、もっと学ぶ時間が取れれば幸いです。 別当寺であった事について考えてみたい。 昔から岩本寺が仁井田五社の別当職であったことは知っていたが、ネット情報によると: お遍路さんはこの仁井田五社へ参拝後、岩本寺で「御朱印」を記帳頂いて次の第38番 札所などへ巡礼の旅に出るのが形だったらしい。
単純に88カ所の札所を回るということでは無くて、一定の神社の参拝するのも決めであり、 そこで仁井田五社の御朱印も貰った後、歩いて岩本寺へ廻り読経の後御朱印を頂く決まりに なっていたのではないか?
れていたと考える私の推論も成り立ちそうですね。 考えるヒント情報・背景 1. 私の実家もかつては岩本寺が菩提寺であり、昔は1年に1回お坊さんがお布施を集めに くるとお米をある量を納めるのが習わしだった事。 2. 私の祖父が1941年(昭和16年)旅立ち、その後の弔いに当って、お墓に立てる卒塔婆 に種子などを書き込む姿を子供の頃注目して質問したことをはっきり記憶している。 3. 普段の神仏へのお祭りはその集落に古くからあった「わだつみ神社」であり、お寺さん が関与された記憶はなかった。あの世への旅立ちも含めて神道であったお宅はさておき 多くのご家庭は、平素の祭りは集落の神様へ、あの世の旅立ちなどご先祖様との繋がり はお寺さん(明治以降は岩本寺-廃仏毀釈で我が家の横のお寺は廃寺になったという) この仕組みが今も続いているはずです。 以上は考えるヒントの一つです。 具合です。 ご参考までに「藤井山 五智院 岩本寺」と仁井田五社(現高岡神社)の写真情報のご紹介です。 1) 写真による岩本寺と高岡神社 岩本寺 藤井山 五智院 (岩本寺の正式の呼称らしい)
現在の巡 礼 奈良・平安時代からその別当寺は岩本寺であったとされているが: 仁井田五社(昔の呼称 大明神)とも呼ばれる現在の名称が高岡神社・中の宮 (今から1500年前の創建だそうで、ずいぶん昔からの発展していたらしい)
石づくりのの明神台輪鳥居が大変立派です。 (私の幼少の頃の賑わいも同じでした、ああ!) ”四万十町 チャレンジショップ Let‘sしばてん”のHPからお借りしました。 記事の中で「中西権七の大太刀」が例祭(11月15日、昔から)でご披露される話題 らしい記事もあり、昭和20年~30年頃(1945~1955年)の子供の頃見た記憶在り 次の写真に屋台が出ているが、たぶん6,7km歩いて10代前半の子供がこの祭りに来た 最大の狙いはこの屋台の見物だったとお小遣いでの買い物だと思っています。 夏祭りの様子 個人的には夏祭りは知らない。参拝していない。 五社(大明神)の方が強くて、岩本寺などお寺さんとの繋がりは子供達にはわからない 繋がり方であったと思われます。 また、現在お遍路さんが巡礼で回る場合に仁井田五社の拝礼後と言う仕組みは,たぶん ほとんど無いかもしれない。 御朱印 岩本寺の御朱印
高岡神社の御朱印 未入手ですが、次回帰省の際、参拝し記帳願う方向です。 岩本寺が別当寺であった仁井田五社(現高岡神社)はなぜ五社なのか? 旧集落名の窪川町、東又村、興津村、仁井田村、松葉川村の五つの町村を祀る神様として また、かつての仁井田郡(こおり、郷?)から「仁井田五社」との名前がある…私の推論 さらに、旧東又村には十二社もあり神様の歴史も大変古いので未知の部分が沢山残って おりますが、仁井田五社と別当職であった岩本寺の関係、成立ちを中心に今は考えたい。
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最終更新日
2017年12月20日 16時21分05秒
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