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カテゴリ:思索
戦後60年を向かえて、多くのメディアでアジア諸国との相互理解をこころみる番組が多く放送されていた。
そこで明らかになってきたことというのは、やはり日本の若者は歴史をよく知らないので、ろくに議論もできないということだった。そしてそういう歴史を教えないところに中国や韓国の人々は苛立ちを覚えているようだった。 かく言う私は若者ではないが、おじさんである私も、詳細に歴史を調べたこともなければ、近現代史について学校で集中的に教育された覚えもない。 歴史は縄文時代から江戸時代に至るまでかなり詳細に記憶させられたが、近現代史については飛ばし読みだったし、試験にも出なかったように思う。 番組中にもそうした歴史教育についてふれられていたが、やはり近現代史を扱うとなると教師の思想性が問われるので、あたらず触らずやり過ごしてきた面はあるようだ。 そこで番組では歴史を問い直し、アジア諸国と共通の歴史認識を持てるように互いに努力すべきだというところで、おそらくは決着したのだろうが、そこで私は少々の違和感を覚える。 確かに正論なのだけれど、あえて日本人であると教育されてこなかった私などは、いまさら過去の歴史を背負い、日本人としてアジア諸国の人たちと対等に付き合っていきましょうというのは、ハトが豆鉄砲をくらったような思いがする。 なぜなら、そうするためには日本人である必要があるし、日本人として態度を明らかにしなければならないと思うからだ。 いまさら日本人などという枠に自分をはめ直すなんてできるものではない。 戦後60年間、日本人であることについてはあまり積極的に語られることはなかった。そこには左翼的思潮の影響もあったのだろうが、東京裁判という理不尽や、整合性の取れない戦争責任にという問題もあったと思う。それを「戦争とはおしなべて悪いものなのだ。」という一点のみで片付けてきたのだ。 次の世代の子供たちに重荷を背負わさぬよう、そうした語りつくせぬ思いを胸にしまって、戦争放棄という免罪符を盾に、ひたすら経済発展に邁進してきたのだ。 その結果、日本人としてのアイデンティティを確立しないままに成人した僕のような者は、アジア諸国からは無責任な顔なしに見えるのかもしれない。 けれど僕はそれでいいじゃないかと思っている。 ここに初めて国民を意識しない世代が生まれたのだ。 国家や民族というとらわれを課せられなかった僕たちは、自分で自分の顔を探さなければならないし、自分で意味を見出さなければならない。 そこには確かにギャップが存在する。 だが人が人であることに、日本人である必要も、中国人である必要も、アメリカ人である必要もないはずだ。 やがて来る地球人の先触れとして、日本の寄る辺ない若者(おじさんやおばさんも)が踏み出せればよいのだが、それは言うほど簡単なことではなさそうだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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