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テーマ:こころの旅(60)
カテゴリ:思索
気がつくとすっかり秋だ。
風が涼しく、朝晩は寒いくらいだ。 秋の虫が涼やかな声で大合唱している。 僕の住んでいるあたりは、都会の割にはなぜか小山が点在していて、季節の移り変わりを身近に感じられる。 リーリーリーリー 仕事からの帰りに小山沿いの裏道を通れば、バスやトラックの往来する喧噪を避けて虫たちの声を味わうことができる。 それはもう本当に大合唱で、虫たちの声がまるで押し寄せる波のように絶え間ない流れになって僕を包む。 何やら家に帰るのがもったいないくらいだけれど、くらがりで座り込むわけにもいかないので、道々歩いたり立ち止まったり… 先日、虫の声を愛でるのは日本人に独特なことなのだと聞いた。 虫の声を聞くときに、日本人は脳の言語野が活性化するのだそうだ。 それに対して一般の外国人は、単に音として処理するので、虫の声をノイズとしか認識しないのだそうだ。 ---車のエンジン音も虫の声も大差ない世界とは一体どんななのだろう? 江戸期に来日した博物学者、シーボルトが驚いた日本の習慣のひとつが「虫売り」だったという。世界中の他のどこの国を捜しても、その声を楽しむために虫を売買したりする人を見つけることはできないそうだ。 江戸期において、すでに鈴虫を飼育し卵を生ませ、また翌年卵を孵すための指南書が発売されていたというのだから驚きだ。 それは庶民の風流な遊びとして立派に定着していたということを意味する。 ドイツ人であるシーボルトは、こうした習慣を「西洋人である私たちにはまったく理解できないことだし、これからも理解できないだろう。」と書き残しているという。 彼の予言はまったくそのとおりで、やはり西洋人には今でも理解できないことらしい。 ただ、こうした脳の働きの違いは人種の問題ではなく、日本語を母国語として育った人に特徴的に現れることなのだそうだ。 だとすると、それは完全に文化的条件付けによるものと言える。 どうしてそんなことが起こるのだろうか? ここからは僕の勝手な想像なのだけれど… それは自然の中に主体を見いだすからではないだろうか? 日本人は虫や鳥たちに主体があるものと捉えているので、彼らの声に何か意味を感じ取ろうとするのではないだろうか? それに対して西洋文化圏では、主体を持ち得るのは人間だけだという前提があって、虫なんかが何かを語りかけてくるわけがないのではないか? きっとキリスト教が大きく影響を与えているのだろう。 この推論が当たっているかどうかはわからない。 それに、こうした研究が他のアジアの人たちや少数民族に対しても行われているのかも不明だ。 ただ、インストールされたOS(=文化的条件付け)によって、これほどの違いが生まれてくることに興味をそそられる。 「この虫の声のよさがわからないなんて、まったくどうかしてるよ!」 日本OSをインストールされている僕などは、本気でそう思うのだ。 虫たちの鳴き声はコチラ! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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