名前のない怪物
近ごろはまっているものが二つある。ひとつは漫画「Monster」だ。おもしろい。まるでそれは光と闇、意味と無意味の対決だ。一方は命には意味があると言い、もう一方は意味がないと言う。そうして意味がないという者は、軽々と善悪の彼岸を飛び越えてしまう。謎解きの鍵となるのは絵本「名前のない怪物」だ。「むかしあるところに名前のない怪物がいた。名前のない怪物は名前が欲しかったので,二つに分かれて名前を探す旅に出る。怪物は取引をして、出会った村人の名前をもらうかわりに体内に入って力を与える。だが、しばらくすると腹がすいて体内から村人を喰ってしまう。そうして名前のない怪物に戻ってしまう。そんなことを怪物は何度も繰り返す。ある日、病弱な王子と出会って取引をする。王子はすっかり元気なって、王や家来たちも大喜び。名前もお城での生活も気に入った怪物はお腹がすいてもがまんする。でもついにがまんできなくなって王様や家来たちを喰ってしまう。城を出た王子はもう一匹の怪物に出会う。王子「すてきな名前がついたんだよ。」怪物「名前なんていらないわ。名前がなくても幸せよ。だって私たちは名前のない怪物ですもの。」王子は怪物を喰ってしまう。せっかく名前がついたのに、名前を呼んでくれる人は誰もいなくなった。ヨハン、すてきな名前なのに。」ブラックだ~ブラックすぎる~!闇だ~真っ暗闇だ~!!しかし自分という存在が、他者との関わりの中で規定されたり確認できたりすることを思えば、とても意味のある話しだと思う。もし他者がいなければ、あるいは誰も名前を呼んでくれる人がいなければ、あなたという存在は何だろう?人は自分が誰であるのかを知りたくて、始終外ばかり向いているのかもしれない。もし自分という存在に直接向き合えば、たちまち自分が誰だかわからなくなる。というか、自分という存在が規定できないことがわかる。ひとつの簡単な方法は「自分は誰か」と自分に問い続けることだ。それはもっとも古い公案(禅の問答)のひとつだ。プーナのアシュラムではそれを一週間から十日ぶっ通しでやる。この規定することのできない意識は、もはや自分などという枠にはおさまらない何かだ。時間がないので今日はここまで今から北海道!