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カテゴリ:考え事
今でこそ様々な物に名前が付き、様々な基準が設けられていますけど、昔はそんなものは一切無かった。
なぜなら、言語や思考の無い世界には全く意味の無いものだったから。 それを作ったのは紛れも無く我々人間だ。 人間は言葉を話し、頭で思案を巡らす。 物に名前が無ければ不便だし、基準がなければ思考は途絶えてしまう。 では、その名前や基準は誰が決めたのだろうか。 例えば「山(やま)」という言葉がある。 実際山が出来た時にはそんな言葉が無かったはずであるが、今はその言葉が存在する。 つまりそれまでの間に山という言葉が誕生したはずだ。 ということは誕生させた人物がいるはずである。 (注:ここで人物に限定させたのは、人間以外のあらゆる生物や物質に言語の生成能力が無いと仮定したからである) それは一体誰なのだろうか。 日本全土の基準となったわけだから、かなり日本に対して影響力があった人物ではないだろうか。 一概にそうとは言い切れない。 今日でも多くの新しい言葉が生まれていっている。 流行語なんてのがその良い例だ。 流行語になった言葉は、大概多くの日本人に知られている言葉なのだが、その言葉を作った人物を私はあまり知らない。 KYなんて言葉は一体誰が生み出したのだろう。 どんなにおかしい日本語でも、また行動・動作であったとしても、多くの人に支持され、多数派になればそれが正当化される。 そうやって世界は成長してきたのだ。 無論これからもそうであろう。 今まで正しいと思っていたことが突然正しくなる事だってあるのです。 つまり基準とは、誰が作るとも無く、全員が決めることなのではないだろうか。 (もちろん法律や規定・規格など、少数の人間で勝手に決められることもあるが) 基準は完全だ。 基準は決して狂ってはいけない。 例えばカレンダーに書いてある月日は、天体の動きを基準にしている。 暦を制定した人物が、それは狂うことがない、と考えたからだろう。 人間が創ったものでもないものをそうと決め付けたことには疑問を感じるが、なかなか合理的に思う。 もしも何らかの理由で地球の軌道に大きな変化が表れたりして、基準が狂ってしまったら大混乱になるだろう。 もはやもとの基準を知ることは出来ない。一から制定をし直す事になる。 実際には、「時間」というものは途切れたり速さが変わったりすることなく滑らかに流れている。 それは誰しもが知っていることだ。 理解はできる。 しかし、時間は等間隔では無い。 間隔は人間が勝手に決めた基準でしかないからだ。 しかしながら我々は、時間の流れを等間隔だと錯覚してしまう。 時間が滑らかに流れていることは分かっているのに、それを実感することができない。 それほどまでに私たちは“基準”に縛られているということなのだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年09月24日 02時24分24秒
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