カテゴリ:気功 スピリチュアルかな?
京都では長居していると、「お茶漬け」を振舞ってもらえると聞きました。 ただ、そこには「もう帰ってください」という無言で裏腹の意味があるという事を聞いた事があります。京都の知人に確認すると、今は一般的では無いようですが、その様な例えに遣われる慣わしがあったことは確かなようです。 「気遣い」には良いイメージがありますが、本来、他人の目を気にする、悪く言うとズルい人にこそ、その素質を感じます。また、「気遣い」には、必ずしもその人の本意が含まれているとは限りませんし、むしろそこには「嘘」と密接な関係も感じています。そしてそこに敏感な人は、「気遣い」にさえ鬱陶しさを覚えると感じます。 「気遣い」(嘘)に敏感な人ほど、そのモノの気質を強く持っているように感じます。ただ、そこで「嘘」として認識できるのだったら、それって本当の事を伝えてもらったのと同じことなのではないですかね?私はむしろ正直なものの方が怖いです。気遣いも「本当」「嘘」とかいうより、相手の求め方次第のように感じます。 多くの人が、少なからず自分の中に嫌いな所を感じ、「負い目」のようなモノを抱え、生活していると感じます。そういった所まで、ストレートな気質(「天真爛漫」や「無邪気」・「純粋」も含め)な人は、悪気なくストレートな(逃げ場を残さない)表現でついてきたりするんですね。自分で自覚している嫌な所を他人から指摘されることほど、嫌なモノはないです。 「気遣い」は、ある意味「日本の文化(気質)」のようにも感じます。そこに含まれる「嘘」的質に敏感なひとが、「純粋」を求めて、「外国的文化(気質)」にハマったりすることもありますかね。私もそうでしたかね。ただ、今は、外国的ストレートな気質よりも、日本の「建て前」的な気質に「優しさ?」(安心?)も感じます。 また「気遣い」によって疲れてしまいますね。ただ、私は、「疲れ」(頑張った)を感じないと、1日損した気にもなります。そして私は周りが先に弱音を吐いてくれるとほっとして、逆に力が湧いてきます。故に、周りを見て、時には先に弱音を吐くようにしています。プライドとの折り合いが難しい時もありますが、その様な気遣いもありかなと感じます。 「不幸」や「ネガティブ」も、場合によって何よりも他人に「安心」や「勇気」などの力を与えるモノになることも感じています。マイドオ~キニ~、マタオコシヤス~(あっていますかね?)(07.11.17著) ・・・・・・・・・・ 「日本のしきたり」(礼儀作法)をクイズ形式で紹介する番組を見ました。その問題の1つに・・・ 「食べ終わった魚の皮の始末として正しいモノはどれでしょう」 1. 身の着いていた側を表におく。 2. 身の着いていた側を裏におく。 3. 皿の隅に小さくまとめておく。 とありました。若い女性アイドルが2番を選び、その理由に「見た目が綺麗だから」と答えていました。「正解」は3番でしたが、礼儀作法の先生にその理由を聞くと同じく「見た目が綺麗だから」と答えていました。写真によって3つの状態が質問と一緒に紹介されてアイドルさんも全て目にしていましたし、「不正解」にはちょっと複雑な想いが残りました。 また元々礼儀作法とは、相手への気遣いを基本に考えられているモノが多いと感じますが、今日のように礼儀作法を知らない人が大半を占める世の中になってしまうと、逆に相手に恥をかかせてしまうモノにも成りかねないですね。ただ知らないモノ(他世界観)を知ると良くも悪くも刺激になります。受け入れる・入れないは別にして長く伝えられていくことを望みます。 個人的には、その時々で色々な「世界観」を楽しむように浸りたいですね。(08.5.28著) ・・・・・・・・・・ 「本当の気遣いは、相手に気を遣っていることを知られないようにすること」といわれますかね。 ただ私は、結果的(間接的)に相手に「気遣い」が伝わることで、より大きな意味を成してくるとも感じています。そしてまた、その時は気が付かずに後になって説明を受け、より強い感動を受けたりしますね。本人にはそんな気も無いのに、後に他人によって「理屈」付けられてより強い感動を得られる話(深い話)になることも少なくないように感じます。 「理屈」付ける側も、ヒト(相手)を高めることよって自分の感性をも高める術になっていることもあるように感じます。美術品やその他のモノにもそうやって価値が上げられているモノも少なくないように感じます。そしてまた「気遣い」も含め、相手の「想い」を感じて「行動」に移った時点で、全て広い意味での「自己主張」になるように感じます。(08.7.17著) ・・・・・・・・・・ 「まったく、うちの嫁ときたら・・・」施術中の会話です。 彼女はだいぶ姑さんに気を遣ってきた自負があるようです。歳をとって今度は自分がワガママを聞いてもらう立場になると想っていたら、迎えたお嫁さんも姑さん同様に気を遣わせられる性格であったようで、自分の人生にとても「不公平」を感じているようです。確かに一人っ子も増えたせいか、あまり我慢を必要とせずに育った若者も少なくないように感じますかね。 私に限っては、「我慢」・「譲る」・「与える」等を一番強く学んだと感じるのは、親との関わりに伴う「キョウダイ関係」だったように感じていますね。ただ両親の「お兄さん(弟)なんだから・・・」はストレス(矛盾)を感じることも少なく無かったですね。特に自由な姉には嫉妬も感じますが、おそらく相手もそれぞれの立場で色々と感じていたと想いますかね。 ただ、一度気を遣う事に慣れて(?)しまうと、相手の性格に拘らず、気を遣わずには居られなくなってしまうようにも感じていますね。私などは、その気遣いによって色々な意味で満足を得られることも少なくないように感じています。ただ、やはり私もたまにはワガママを言ったり、愚痴を吐く側にもまわりたくなりますかね。(笑)弱音を吐ける存在は大切ですね。 彼女に限らず、施術中にそう言った愚痴や弱音を吐けた後には顕著に体調が良い方へ向かう変化を感じることも少なくありませんね。そして「あまり我慢を必要とせずに育った若者」からでないと得られない感動・刺激も少なくなくて、ここでもまたジレンマも感じたりしています。(笑)(08.8.10著) ・・・・・・・・・・ なかなか「本音」って表に出し辛かったりしますかね。 「本音」・・・中でもあまり体裁の良くない「ワガママ」や「愚痴」的なモノが含まれると余計に出し辛いですかね。ブログなどにおいてそういったモノを吐き出したりもしていますが、やはり人の目にさらすことでその反応が気になったりして、結局「本音」には至らなかったりするんですよね。だからといって人目にさらさないと満足も得られなかったり・・・。 ブログで本音を書くと、コメントにおいて私が表現した内容がそのまま反対意見のように返ってきたり、普段私が建前的に(体裁良く)他人を諭すように遣う表現が返ってきてしまい、表現の難しさと共に、自分のプライドに折り合いをつけながらあえて本音を書いたのでがっかりさせられることも少なくなく、更に本音の表現をためらうことになったり・・・。 絵や彫刻・詩・音楽やスポーツなど、広い意味での「芸術」(作品)と言う形にして表に出すと、例え直接的なそういった体裁の良くない「本音」(欲求)も、比較的表に出し易かったりしますよね。それどころか尊敬されたり喜ばれたり・・・。ペンネームなども含め、ある意味他人事(作品)にすることで、体裁の悪い事も出し易かったり、受け入れ易かったり。 私が日記を書くときに多用する「・・・ですかね。」も、多くはそんな質のモノですかね。(笑)個人的には「ワガママ」や「愚痴」的なモノを含む時、他人に対して意見や答えは望んでいませんかね。多少理不尽でも同意の言葉を望んでいたり・・・自分でも理不尽さは自覚していますから。そうなると「・・・ですかね。」は紛らわしいですけどね。 昔は「嫌だな~」と感じ、「想い」続けると、よくそれを回避出来たりしていましたね。 会いたくない人や、参加したくない行事など、相手の都合が悪くなったり、天気が悪くなったりといった自然現象に助けられたり・・・自分の方から断らなくても自分のプライドを保つように「嫌」を避けられてしまうんですよね。土壇場ではよく良い方向に転ったり・・・。ただその土壇場になるまでそのことが常に頭から離れなくて辛いんですよね。 ある意味想いを強める行為とその結果でしょうかね。歳を重ね、自分から断れるようになり、確かにその場は「嫌」な想いもしますが、長く引きずりませんかね。「正直・本音」(鈍感)に楽を感じたりもしますかね。ただ私には性に合わない気がします。結局の所自分の体裁を守る質が強いと自覚していても、出来る限り相手に嫌な気持ちになられたくはないですからね。 バレたらより酷い事になるのは承知の上で・・・。そして時に相手にもバレない嘘を望みますかね。周りだけに多大な気遣いをかけますが、もし私が不治の病になったら、その事は私には告げて欲しくないですかね。(09.5.19著) ・・・・・・・・・・ 「面白い味ですね」 テレビなどで食べ物を紹介する時に、自分の好みに合わないモノに当たってしまった場合に重宝する言葉だそうです。多くのヒトは「美味しかった」と捉えることでしょうね。後に誰かに「あれ不味かったよ」と言われても、「『美味しかった』なんて一言も言ってないよ♪」なんて返すんでしょうかね?本当のことは言えないが、嘘も付きたくないってことですかね。 時にマナーの見本的に取り上げられる言葉ですが、本質は相手にも自分にも嘘をつく、最もズルい答えのようにも感じますかね?相手を想いやるモノであれば嘘でも悪くない・・・?私もそんな感じで割と多く嘘をつく方だと感じますが、私の場合は「相手が嫌な想いをしないように」というよりも「相手が嫌な想いをしている所を見たくない」といったモノですかね。 私はヒトの不機嫌な時に放たれる「気」が何よりも苦手なので、私に限っては「気遣い」の多くはそれを避けたいがため、自分の心地よいと感じる場を守るためのモノであり、そしてまた嫌な人間に想われたくないと言ったような自己防衛を含め、結局は自分の欲求を満たすためのモノですかね。ただそれでも世の中正直より良いと感じることが多いですかね。(11.9.10著) 姉妹日記「バランス」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2012.09.29 13:05:49
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