カテゴリ:気功 スピリチュアルかな?
今年も「24時間テレビ」が終わりました。 今回のランナーは、○○はるみさんでしたね。彼女は昔からランナーに選ばれることを望んでいたようですね。人生のチャンスも感じているようですが、彼女からは無意識に「厳しさ」(苦)から「満足」(幸せ)を感じる気質を感じましたね。そして男性(特に父親)との関りにそこに繋がるモノも感じますかね。 毎回「愛は地球を救う」と謳って感動的な場面をいくつも演出されていますが、裏番組ではこの番組をパロディー化(茶化)したお笑いの番組も多かったように感じますね。考えてみれば私もその裏番組を見ていた時間の方が長かったように感じます。同番組でも、軽い内容のプログラムもありましたしね。「笑う角には・・・」とかも言いますし・・・ そしてまた、戦争に関っている人や、病気や障害と闘っている人達に、時に嫉妬を感じていた時期もありましたね。その頃は世の中、物質的にも表現的にも沢山あふれていて、自分だけのモノを見出すことが難しく感じられました。他人の真似も悔しくて出来ず、動けずにいました。人生の目的を何も見出せずに自ら命を絶つような現代であるようにも感じて・・・ そんな時に見た戦時下に生きる人達の「とにかく生きる」といった人生の明解な目的に嫉妬を感じたりしていましたかね。また宗教的な捉え方により、戦争を「聖戦」とか位置づけられていれば、何よりも尊い生き方として誇りさえ感じながら殺し合いもするでしょう。そして周りの国も「その国の価値観の問題だから」とかいって、その善悪もしっかり示せませんしね。 また病や障害を持つ人の芸術的表現が健常者のそれより優遇されているように感じられたり、いざとなると全ての人が彼等の味方に回ってしまうように感じられて、ここでも嫉妬していましたかね。そして、彼等のする事全てに頑張りを感じて何も出来ないでいる自分に「負い目」を感じたり・・・とにかく自分を感じている余裕が無かったように感じます。 だからといって「平和な時代に生まれて幸せだ」とか「健康が一番」とかも言いうことにも色々な意味で気が引けますかね。そして彼らが自分の立場を、常に不幸と感じているとは感じられませんしね。少なくとも私の立場で決めることではないと感じますし、どんな立場の人であってもその時々で変化するモノでもあると感じています。 私もいざその立場になると、前の立場の方が良かったと感じることも想像できますし、それでもそういった事を繰り返して感じていくのであろうと感じています。今までも少なからずそうやってきているように感じています。不便な頃の日本が良い時代だったと恋しかったりもしますし、でも一度便利を経験してしまうと・・・ね! ただそこには時に、便利な(新しい)モノについていけない時の「嫉妬」が絡んでいることも少なくないですかね。とにかく「幸せ」は「平和」や「便利」の中だけにあるモノではないようですね。自分が「幸せ」的に満たされた中に居ると、「幸せ」の感覚も麻痺して、自分の中での感覚や定義も変化してしまうように感じます。 「戦争・不幸」時に「平和・幸福」を求めるように、特に行き詰まりを感じると、単に変化を求めるようにその逆もまた生まれるようにも感じますかね。自分では常に「平和」や「幸福」・「正義」を求めているように感じていても・・・。今回もまた中傷的表現がありましたね。すいませんでした。(08.9.1著) ・・・・・・・・・・ 「波乱万丈」な人生にどこかで憧れていたりしますかね? 何気ない日常の会話においてある知人が「苦労話」を始めると、他の知人が「私なんかね・・・」と言った具合に「苦労話」を被せてきました。何か「自慢話」のように時には楽しそうに見えたりもしましたね。そのうち内容がエスカレートしまって、聞いている方が恥ずかしくなって「もうそのくらいに・・・」とか気を遣う空気になったりもしますね。(笑) 「苦労」(不幸)した事って通り過ぎてしまうと、何よりも体裁の良い「自慢話」になったりしませんかね。周りからは労われたり、時にはドラマチックな人生を羨ましがられたり・・・その経験がお金に繋がったりする幸運な人もいますよね。「苦労は買ってでもしろ!」と言いますが、「あの時の苦労に比べれば」や「思いやり」的力にも繋がったりもしますかね。 ただ「苦労」(不幸)は逆に人を「卑屈」にしてしまう力も感じます。ある程度バックボーンのしっかりした環境(生れ付き金銭的に恵まれていたり、最終的には助けが得られる保障がある)にある人間にこそいえる言葉のようにも感じますね。歴史において崇高される人物などの生い立ちも、元々そういった恵まれた環境に育った者も少なくないように感じますしね。 私などは他人に良く見られたいたちでもあり、ついつい厄介な事を引き受けてしまうのですが、労いの言葉の一つも掛けてもらえれば喜んで背負っちゃいますよ。 (笑)ただ確かに苦労して得たモノはそうでないモノ以上の満足感を得られたりしますが、苦労を損と感じたり苦労しなくても同じような満足感を得られる人も少なくないように感じます。 話を最初に戻しますが、最近特に何気ない日常の会話において感じることに、皆が自分の「苦労」を競うようになっているように感じますね。本来家庭などにその労を労う役割の人が1人ぐらいいるべきなのでしょうが、核家族化や共働きなども増え、家事・子育ての助けも得られなかったり、家庭も「苦労」を競う場になっているようですね。(08.11.1著) ・・・・・・・・・・ 100年に1度の経済危機! 少し前までは知らなかった政治や金融のカラクリもマスコミによって少し見えてきましたね。ただそれらを知っても我々にはなかなか改善する動きも起こせなかったりしますかね。「日本人は大人しいから」とか言われますが、仕事や子育てなど日常生活をしながらは大変ですよね。働き詰めでそんな意欲を失わせるのも国のカラクリの1つのようにも感じますけどね。 インフルエンザ流行の不安が高まると、マスクに関る紡績会社の株が急騰したようですね。最大の景気対策は戦争とか言う極端な声も聞きましたが、皆が願っている経済の復興には、必ずしも全ての人の幸せがついてくるとは限らないように感じますね。結局紡績会社の株も一定の高騰の後に「利益確定」とかいって急落したようですが・・・これもカラクリ? 損害のほとんどは金融機関が被り、潰れた金融会社もあり自業自得のように伝えられたりもしていますが、それまでに受けた多大な恩恵の蓄えが個人にはあるようで、職を失っても裕福な暮らしを続けている人も少なくないようですね。なにかどうしようもない嫉妬や理不尽さが増すばかりで、むしろ「知らなければ幸せだった」かな?どう想います? 「100年に1度・・・」と言いますが、そもそも100年・200年前に同じ経験をしてきているということ・・・?でないとすれば、いずれ元の経済状態に戻るという言葉にもカラクリを感じますかね。少しでも生活改善は欲しいですが、例え今のカラクリのまま元に戻ってもあまり意味を感じませんかね? 戻っても同じ輩が恩恵を受けるだけでしょうし・・・。 カラクリ(システム・組織)も人為的な発生のモノばかりではなく、また個々の責任でカラクリの問題ではないとも言いますが、カラクリには個人をあやふやにして責任を何処に求めたら良いか判らなくしてしまう「隠れ蓑」的強い資質を感じ、なかなか改善できなかったり、逆に組織を守るために個人が蔑ろにされたりしてとても厄介なモノのように感じますけどね。 ただ時には責任をあやふやにすることで事態を収めてくれたり、そのカラクリにうまく乗れている立場であったらそのカラクリに対する印象や発言も変わらない自信もないですけれどね。そしてこうやって体裁よく文句を言える今の立場もある意味幸せなのかも知れませんがね。でもどこかでそれを「シメシメ♪」とか思われていたり・・・きりが無いですね。 私は特に「生きがい」を持たないので、そういった(不公平)事にいっそう気が回ってしまうのでしょうかね。ただそういった「嫉妬」的感覚まで無くなってしまったら、私は本当に生きる上で何も無くなってしまうようにも感じますかね。そして表向きの見え方に違いはあると感じますが、何をやるにもこの「嫉妬」(憧れ)的感覚が人の基本にあるように感じます。 また「人間のモラルに頼らずに、不正を許さないシステムを創ることが大切」と、学者さんが言っていましたが、そのモラルがしっかりしていないとそのシステムも生まれるようには思えないし、遣い手次第で「網の目」はどんなモノにも付いて廻りますよね。そして誰のモラルをモデルにすれば良いのでしょうかね?自分自身のモラルにさえ自信がないのに・・・ なによりも「人間のモラルに頼らずに・・・」自体で全て終わってしまっているようにも感じますがね。(09.11.3著) ・・・・・・・・・・ 「沖縄に米軍基地は要らない!」 我が国でも軍事力による抑止力の話合いもされてきていますね。本当に核兵器でなければ抑止力にならないのであれば、数千の海兵隊では抑止力としての意味を成さないということですから核兵器を持ち込めない日本の海兵隊の基地は要らなくなってしまうことに・・・また数千の海兵隊が抑止力になるのなら核兵器は必要ないということに・・・? お互いの国が核兵器を所有することで平和を維持できて・・・軍事的バランスが取れているのでお互いに攻め込めないから・・・でも新しく核兵器を持とうとする国は許さずに・・・だからと言って(バランスが崩れていても)攻め込むわけでも無く・・・単純に「我が国は攻め込まないからお互い核兵器を全廃しよう」という方向の話合いにもならないようで・・・ 例えば日本に外国の基地がなくなったとして・・・「戦争の放棄」も掲げるこの国にそれでも攻め入ろうとするのか世界中の国々に一度ストレートに尋ねてみたいものですね。今までアジアで飛び抜けて欧米と仲が良かった訳で、他のアジア諸国からは少なからず嫉妬も受けてきたことでしょうし、基地が無くなった事で威嚇も無くなり、友好的になれたりして・・・? 例えばそれでも何処かの国が日本に攻めてきたとして・・・結果的に日本から基地を追い出されたことになった国は、日本が侵略されている姿を見ても見ぬ振りをしますかね?となれば今の「友好国」や欧米の「正義」という位置付けも怪しく、他の利害関係による結び付きであったり、欧米の自国防衛や雇用確保のために体裁よく利用もされていたりして・・・? 例えば他国に攻め込まれ、大切な人の命が危険にさらされているとして・・・我が国は「戦争の放棄」を掲げてしまったので反撃しないことを貫けますかね?自衛は戦争ではありませんか?それでは今までの戦争は全て侵略者同士の戦いってこと?ちなみに私は迷わず反撃しますがね。やっぱり核を持たないなら国民に徴兵を義務化するべきですかね? ただ私は「国の為」という名分では戦いませんがね。また戦時下では軍と民間を区別した攻撃も難しく感じますし、時には自分では大切なモノを守ろうとした行為が「テロ」と呼ばれてしまったりしたことは無かったのでしょうかね?でも他国の価値観の違いには不安も残り、自分に矛盾と共にヒトの倫理観に対して楽観的であるも感じますがね。(10.5.15著) 姉妹日記「癒し」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2012.03.17 10:46:53
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