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いろを的陶器とちょっと気功な話

いろを的陶器とちょっと気功な話

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2008.09.11
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 考古学など歴史の研究に、時々その時代にそぐわない異物が見つかったりしますね。

 たしか「オーパーツ」とか言うように記憶しています。いわゆる「矛盾」の形の一つだと感じますが、これがよく厄介な事を引き起こしてくれます。

 私は小さい頃から、自分の感覚から周りの人とズレを感じながら、波風立てないように、他人に合わせていた記憶が強く残っています。皆同じ場所にいて同じモノを見聞きしているのにどうして違う応えが返ってきてしまうのか、世の中に奇跡や偶然・矛盾や例外そして個人差は、なぜ起こってしまうのかいつも不思議で、これにも生き辛さを感じていました。

 科学という主世界観の中で時には楽しく過ごしていましたが、やはり心にしっくり来ない事も多く、よくそれを他の世界観(超能力・心霊等の不思議な世界)で埋めるように過ごしていました。しかし、いずれも他人の創った世界観であるためか、心(自分の感じている事実)にしっくり来ない事が出てきてしまい、結局自分を抑えるように過ごしていました。

 それぞれの世界観の中でもまた個々は別の景色を見ている様に感じられ、お互いの理解は微妙にズレたまま一致する事は無いのだろうと人付き合いに諦めも感じていました。 物事を吸収し易い小さい頃から矯正的に同じルールを詰め込んで来たものの、細かい理解は個々の世界観でやっていて、なんとなくお互い理解した気になっていただけなのだと感じています。

 ただ、そんな感覚から、「真実」は、それを求める世界観の数だけ存在し、「真実」は1つとする今の主世界観のルールにより、相対する「真実」が存在する場合、信念の強い「真実」が弱い「真実」を淘汰し、強さが拮抗した時に「矛盾」の様な形をとって現れると感じます。

 歴史の研究も、学会という大きく、強い世界観のルールにより、多くはそこの枠内に落ち着くのでしょうが、研究の性質上、強い信念を持つ個人の世界観も現れやすいように感じます。 そして今は、昔苦しめられていた矛盾や奇跡等を、全ての世界観(プライド)が存在するためにとても大切なモノであると感じられる様になり、そのズレを少し楽しめる様になりましたね。

 結局の所、今回の私の表現も、自分の感覚からの1つの世界観という事になりますので、是非は別として・・・意味は伝わりましたかね?もっと良い表現が見つかったら、またトライしてみます。(07.9.6著)

・・・・・・・・・・

 「原因が分かった♪」

 知人が晴々として尋ねてきました。彼女は調子を崩しては医者に診てもらい、病気の原因を頂いては安心を得ているようです。頂いて数日は調子が良いのですが、また同じように調子を崩し、別の医者によって別の原因を頂いてまた安心を・・・といったことを繰り返しているようです。そしてインターネットによって自分で医学的知識を詰め込んでもいるようです。

 そしてまた「占い」など非科学的なモノも深く興味を持っているようで、そういった文献にも多く目を通しているようです。医学とそれらは相対する価値観(理屈)に位置することも少なくないようですし、同じ医学においても様々な原因を頂いているわけで、ある意味自分の中に矛盾を創ってしまって、いずれも信用できなくなっているようにも感じます。

 気功に深い医学的知識を持って尋ねて来られる人もいますが、やはり治癒には長い時間を費やしてしまいますかね。そしてその医学的知識の通り(素直)に症状を進行させ、ある意味「想った通りになった」という満足感さえ感じられる人も時に居たりしますかね。ただ逆にこういった一つの世界観に偏った人程、切り替わると変化も顕著だったりするんですよね。

 何でも認められる(否定できない・どっちつかずの)人間よりも、ある意味深く「信頼」することに慣れているといいましょうか・・・ただ、多くの世界観から同時に認められることも大きな「信頼」になると感じますがね。(09.9.8著)

・・・・・・・・・・

 「地球は丸い」

 大昔は世界は平らだったんですよね・・・丸く(サイクルに)すれば「無限」になって、とりあえず平面世界の矛盾も治まって・・・そしたらあらゆる方向に世界が広がって、今度はどうやって宇宙(世界)の矛盾を治めるつもりかな・・・ここまで来てしまったから、私はこれからも他人の世界に便乗し続けて、いつまでも矛盾(不満)を抱えながら生きるのかな。

 内の宇宙(世界)も広がって・・・相対するモノが共存する世界全て認めることは、全てを否定することでもあり・・・正直に生きてもその度逆の正直が生まれて「無限」になって・・・私はどうやって内の宇宙(世界)の矛盾を治めるつもりかな・・・ここまで来てしまったから、私はこれからも他人の世界に便乗し続けて、いつまでも矛盾(不満)を抱えながら生きるのかな。

 ただ矛盾がなくなってしまったら、色々な意味で内にも外にも窮屈になるんだろうな。「無」にして(逃げて)しまえば治まる(楽な)のかな?(09.12.23著)

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 衝撃映像100連発!

 最近多いですよね。そのプログラムのなかの1つに、「次の4つの映像のうち、本物の映像はどれでしょう?」というクイズ形式のコーナーがありまして・・・どれも信じられない映像なのですが、1つだけCGや演出・加工無しのモノがあって、それを当てるのですが、多くの回答者が見分けも付かず、騙されていましたね。ちなみに私は全部当てましたが・・・(笑)

 私はクイズ形式のように「騙し」が前提としているモノに対しては特に、問題(映像)自体よりも問題(映像)の製作者や答えを知っていると思われる司会者などを意識して見るようにしています。だからといって漠然と答えが解るということではなく、映像の荒さなどの視覚的違和感としてしっかり認識できます。映画など普段から映像には関心も持っていますがね。

 それも含め、そういった「関心・意識」が違ってくると、同じ時に同じモノを見(感じ)ても、違った見え方(感じ方)をしてしまうような『矛盾』が起こるように感じますかね。おそらく素直に製作者の意図(騙し・想い)に合わせて感じる人と、直接「騙し」という裏に合わせて感じる私とは見え方に違いも出てくるように感じますかね。

 初めは「想い(信じる)」の強さが拮抗しているため、『矛盾』として複数の感覚が成立すると感じますが、後に研究者などの既存のルール(理屈)などによってその感覚が一つに矯正され、それを納得することで今まで感じていた自分の別の感覚(真実)を自ら失っていくように感じます。クイズとして初めに正解を用意されていなければ、私の感覚が誤りであったかも?

 別のコーナーでは、「恐怖の映像!」と称して心霊映像を紹介していましたね。出演者や観客の間から悲鳴のような声も上がっていましたが、前のコーナーであれほど映像加工の技術を見せ付けられたのに「その恐怖映像も偽物じゃないの?」的な疑いが真っ先に出てこないのが不思議で・・・気のせいか、映像技術の発達と共に鮮明な幽霊画も増えてきていませんか?

 別に霊の存在の真偽がどうのではなく、そういったことで怖さも軽減できると感じましたけどね。UFOなども含め、これだけ映像技術が進んでしまうと、今ひとつそういったモノに証拠の力もなくなってしまいそうですがね?アメリカなどの一流の映像会社などで働く専門家に検証してもらったことで、その映像は本物であると鑑定もされたりしていますが・・・

・・・例えば私がお金や本当に誰にも負けない技術を持っていたとすれば、表舞台には出ようとせず、単に私が裏で創ったモノで世間が振り回されている光景を見て楽しんだりするような選択もありますかね?ただ私は映像にはそのヒトの「想い」の反映(念写)的要素も感じますので、全てがそういった科学的トリック的なモノばかりではないとも感じていますがね。

 極端に考えを進めれば全ての映像はヒトの創り出す偽り(想い)にもなってしまいますか?映像ばかりではなく、普段から見ている景色などにもそういったモノ(想い込み等)によるその人にしか見ることの出来ない一種の偽り(想い)が含まれていることも少なくないと感じますがね。そしてそういった偽り(想い)に真理・摂理があったりして・・・?(10.9.19著)

・・・・・・・・・・

 「自由」には「責任」が伴う・・・

 ヒトが究極的に求めるモノとして有名なスピリチュアルな芸能人が言っていました。複数の個(世界観・意識等)の存在する場では、各々が素直に自己を表現しただけでそれなりの反応(反発)が返ってきてしまい、私に限って言えば、他人に嫌われたくないので「自由」もその時々の周りに共感の持たれる比較的体裁の良いモノを選択しなければならない・・・選択?

 私も他人に何でもかんでも「自由」に行動されてしまうとちょっと怖さを感じますのでその言葉には共感もありますが、責任が伴ってくるとどうしても行動に制限が課され、やはりそれでは現状となんら変わりなく感じ、少なくとも私の欲する「自由」ではないように感じますかね。結局少なくとも継続できる「自由」は手に入らないモノのように感じてしまいますかね。

 またその芸能人は「運命」のような表現もよくされていますが、「責任」を口にする人間が「運命」をも口にすることに違和感もありましたかね。また起こってしまった自殺などにも「カルマ」などを遣ってある意味そこ(運命)から外してしまったり・・・勿論立場上体裁が悪いのも分かりますが、私のような人間は矛盾や、時に無責任を感じたりしますけどね。

 ヒトは得てして何らかの形で責任を外さないと、なかなか先に進めないと感じます。その意味では「運命」と言う言葉が便宜的で大切なモノになっているとも感じてはいますがね。「自由」に本質的に当てはまるものは「ワガママ」と感じますし、そこに正義を当てはめて行われている悪も少なくないと感じますがね(11.11.12著)



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Last updated  2012.03.31 15:33:58
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