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いろを的陶器とちょっと気功な話

いろを的陶器とちょっと気功な話

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2008.12.21
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陶器5

 先日TVで「超能力の有無検証」番組を見ました。

 私としましては、久しぶりのこのジャンルの番組でしたが、相変わらずマスコミの興味は「有無」に有るようですね。と言いながら私もすごく興味をそそられ最後まで楽しく見入ってしまいましたね。(単純にこのジャンルは楽しくて良いですね)

 皆さんは能力者と否定派A氏とどちらにその存在感を強く感じましたかね?私はA氏の方ですが、あの様な自己主張の強さを競うデモンストレーション的なモノの場合、「真実は一つ」とする今の主世界観においては「気」(世界観の信念)の強い方が弱い方を淘汰する性質がある様に感じています。そして強さが拮抗した時、矛盾の形をとって現れると感じます。 

 この検証方法には、A氏側のアイデアを強く感じます。またこの検証には、A氏が負けた場合「$100万を支払う」という提示がなされています。そこには、自分に気合を入れ、同時に少なからず「能力者は金目当て」といったイメージを与える事で視聴者の「気」をも味方につけ、能力者にプレッシャーを与える力を感じます。

 増して今回の能力者の、「他意識?」(彼の世界観で言う「精霊」)に繋がると思われる能力の場合、一時的に自分の自己主張する「強い」質の「気」を鎮め、相手の主張を理解しようとする「弱い」質の「気」を必要とする様に感じます。


04.jpg


 結局能力者が負けてしまいましたね。

A氏の「負けられない」と言った強い「意識」に能力者が繋がったと考えれば、今回の結果は、ある意味彼の能力を証明した事になりますね。捉え方次第でどうにでも解釈出来ますが、自分が今まで見ていた景色(今の自分の世界観)を変えるヒントがそこにあると私の経験から感じます。

 科学的に検証されてしまうと、全て科学の「世界観」の一部に取り込まれて、せっかくの「他世界観」の持つ力の特性を失う様に感じます。「不思議」(≒無知)はその人の世界観(理屈)からハズれるモノとも比較的易く折り合いを付ける強い資質と無限の可能性を感じます。 

 そしてA氏や他の否定派の人達と、出演している肯定派の人達の間には同じ質の「気」を感じる事が多いですね。お互いにその自己主張する「気」の強さにある種の「嫌悪感」を覚えている様で、「プライド」(世界観)のぶつかり合いの様です。 ただ私は、否定派の人達やマスメディアにこそ「不思議な世界」を激的に切り開いていく大きな力を感じ、期待しています。

 色々な方向・立場(世界観)から物事を見て感じる事が「他意識?」に繋がって行く様に感じられ、色々な景色を見せてくれます。またいわゆる「気が弱くて優柔不断」な人は、無意識にそれをやっている様に感じられます。「気」を弱くすると「他意識?」と繋がり易くなると実感しています。今回の陶器は同じモノを別の角度から映してみました。(07.6.20著)

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 超能力等には強く否定的な立場の芸能人が、超能力者と言われる人達と変わらず見事にスプーンを曲げていました。

 後に彼がタネ証しをしていましたが、能力者が曲げるのを傍で見ていて「腕力・握力」で曲げる「コツ」を掴んだそうです。ちょっと能力者に対しての皮肉も感じますかね。ただ一緒に出ていた司会者の男性は、「腕力・握力」を遣っても曲げるのに苦労していましたね。おそらく本人も「コツ」を掴む前と後では、力加減に変化を感じているように感じます。

 私は「腕力・握力」で曲げたか「超能力」で曲げたかという事よりも、「コツを掴む」(確信を得る)ことにより、広い意味で「力が強くなった」(力が変化した)ことに惹かれてしまいます。スポーツ等で練習を積むことによって、自分自身に上達した確信(コツ)を得て、記録が伸びていく(力が変化していく)ことに類似しているようにも感じます。

 見方を変えれば、スプーンを曲げられないでいる我々多数派の人間の方が、小さい頃からの教育などによって刷り込まれた本来柔らかいモノを固くして使う超能力を無意識に遣っているのかも知れませんね?(笑)(08.6.22著)

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 「地球に優しい」としてエコが強く叫ばれていますね。

 知人は早速エコカーに乗り換えましたが、高速道路1000円乗り放題も助けてか、走る距離は乗り換え前よりもかなり増えたようです。ガソリンの消費やタイヤ等の消耗も増えそうです。私の家もトイレを節水タイプの新しいモノに変えましたが、自動洗浄やウォシュレット等の多機能にもなり、下手な使い方をすると結果的に電気・水量も増えてしまいそうです。

 補助金などが国から出てエコ的なモノに買い替えも進んでいるようですが、結局そこで消費が進んだり、エコ商品に必要な新素材が品薄で、その確保のために新たな環境破壊が進んでしまったら元も子も無いように感じますね。少なくとも私に限っては「地球に優しい」という言葉によって自分をも誤魔化して消費もし易く、遣い方も雑になったように感じますかね。

 「地球に優しい」は、自然への思いやりや人間のエゴに対する自身の戒めなど『崇高』も感じますが、地球(自然)は環境が悪くなったなりに生きて(変化して)いくだけでしょう?人間以外の存在にも自分や家族・仲間を思いやる能力があったとしても、「自分の種を守る」という概念を持ち合わせていますかね?結局の所、「困る」と感じるのは人間自身でしょうね?

 まして他種(種の保存)をも思いやれるのはヒトのみが持つ『能力』のようにも感じますが・・・もっともそれが大切(崇高)なモノなのかもしれませんがね。こんな事を客観的(他人事)に言えてしまう私にはそんな『能力』があるのかも疑問ですがね。そして個人的には人間以外の存在に人間の想いを投影(具現化)する質の「気」を強く感じますからね。

 反エコ的人間の本音には、悪い事と思っていないにしろ自分達だけ得や楽してきた負い目なども少なからずありましょうから、人間以外の存在(自然)にも負な想いは投影され易いと感じます。反エコ的人間の想い・営みに嫌悪を感じ、「地球に・・・」や自然の姿に人間の想いを投影して体裁を整え、エコ的人間も自分の想い・営み(好み)を通しているように感じますかね。

 時に「人間が地球(自然)を救う」という『崇高』も、形を変えた人間のエゴのように感じますけどね。私も以前はエコ派的立場に共感でしたが、それが主流(威張る)になると反発したくもなりますかね。そして結局エコ派にも反エコ派にも付けず、事が進んで行かないもどかしさも感じたりして、どちらでも良いから偏れる生き方を羨んだりもしていますかね。

 植林したりして直接のエコ活動に参加されている人達には負い目も感じますかね。そして活動の内容に限らず「やりたい事」・・・まして体裁まで良いモノが見つかっているということには嫉妬も感じますかね。ただそれが主流になると反発したくもなり・・・常識でいう「正義(生命)」が必ずしも私の生き方の選択の基本にはなっていないようです。

 そして「幸せ」自体よりも「不幸」な所から「幸せ」に移っていく過程の「やり甲斐」を人生に欲していたりする人も少なくないと感じますかね。また時に、「エゴ」と「崇高」に因果を感じますし、「エゴ」にも生きて良く上で大切な役割も感じますかね。その存在の是非ではなく、お互いに本気で嫌悪を感じ、拒絶し合うことも生きる営みの1つなのでしょうかね。

 どんな方向であれ、想いが偏って増え、強まって行くことが具現化(現象)に繋がるようで怖さも感じますかね。よくある諭し的表現にもなり、ドライな自分自身に気持悪さや怖さも感じますが、どうか皆に嫌われませんように・・・(09.12.7著)

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 環境問題改善の話し合いも一向に進展しませんね。

 先日ある番組で、少し経済界寄りな評論家のこれ以上の経済の締め付けは破綻をもたらすような発言に対し、有名な司会者が「地球が危ないのにそんなこと言っている場合ではないでしょ!」といったような趣旨の発言をしていましたかね。その司会者は、ある宗教団体とも関わりがあると聞きましたが、正義感のある言葉にも聞えましたし、評論家もタジタジでした。

 さてここでその二人の立場を借りまして、私なりに議論を進めていきたいと想います。

評論家:「失礼ですけど、あなたは一般庶民より良い暮らしをしているように見えますが、庶民程度まで生活水準を落として、浮いたお金を貧しい所に回すような考えはお持ちではないですか?」

司会者:「世間がそうなれば、勿論その覚悟はありますよ。」

評論家:「周りがやらないと出来ないのですか?」

司会者:「私だけやっても意味ないと感じますし、不公平でしょ。」

評論家:「まさにそれと同じようなことが世界規模で行われているのではないですかね?」

司会者:「・・・」(09.12.20著)

・・・・・・・・・・

 「生態系を壊すな!」

 最近では海底油田施設の事故など、またヒトによる外来種の持ち込みなど、ヒトの営みによって生態系が崩れ、今でも多くの種が絶滅の危機に瀕しているようですね。他の動物のせいというよりも、どうもヒトが増えたことに一番大きな原因があるようにも感じますかね?他の動物が増えすぎると駆除もするのに、子供を増やし、高齢者の手当てを厚くしようと・・・

 戦争などによって自ら、また逆に天災などの自然の力によって間引かれていますかね・・・個人的には全ての物事にヒトの「想い」的なモノの関りを感じますので、これら自虐的な表現には少なからず真理も感じますが、おそらく他種の保存を意識出来るのもヒト特有の能力と感じますし、「神」的目線に嫌悪も感じますかね。何より体裁も悪いですし・・・

 また何度も豪雪や台風などの自然災害や基地などの事故や騒音の人災に見舞われているにも拘らず、「故郷」的なモノに拘りますよね?私はその感覚が無いので羨ましくもあるのですが、例えば自然を守り、無駄な設備(道路や公共施設等)を減らす名分で、都会の住宅も余っているようですし、国の補助の基でヒトが一所に集って暮らすって言うのはどうですか?

 私はあまり他人との関りも得意としませんが、かえって人混み(都会)の方がプライバシーを得られ易いとも感じますし、正直日常的には自然の美しさとかを欲してもいないので名分無しでもOKですがね。基本は都会で暮らして、欲しくなった時だけ自然に出向けば良いかなって・・・田舎でなければ得られない生活となると、「自然を独り占め」的感覚ですかね?

 それ以外はヒトの「心がけ」次第で全て都会でも得られそうな気もしますからね。ただその「心がけ」がヒトとして一番難しいことのようにも感じますけどね。ヒトの関りがもう少し柔らかくなる方法でも見つかればね。個人的にはヒトの歪にも生きていく上で欠かせないモノも感じますかね。

 そして単に自然(物質的)を守るためにはそこからヒトを遠ざけることがベストと感じますが、その自然に価値を当てているのはそのヒト自体でありましょうし、そのヒトが自然から離れてしまったらその価値を誰が感じていくのだろうかというジレンマも残してしまいますね?(10.5.22著)




姉妹日記「立場-2」  / 「索引1」「索引2」「索引3」





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Last updated  2012.03.13 16:55:12
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