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カテゴリ:Jazz
【送料無料】Terri Lyne Carrington / Mosaique Project / Mosaique Project ~ジャズと生きる女たち 【CD】 たまたま東京JAZZのチケットが手に入って、9月5日東京国際フォーラムでこのMosaique Projectを観て聴いてきました。 しばらく前に、内田樹センセの著書『こんな日本でよかったね』だったか、「これからはフェミニンな社会主義です」というようなことが書かれていました。 マッチョな資本主義の生み出した数々の弊害を質的に変えてゆくには、フェミニンな社会主義へ緩やかに移行することだよ、と。 先生の繰り出すcombining(現代音楽用語だと思います。美術でも使うのかな?そもそも美術が発祥かもしれず)、つまりふたつの異質なものを同時に同じ場所で提示することによって衝突の効果を生み出すことですが、この、フェミニンという、丸く柔らかな概念と、社会主義というこちらは四角く生硬な概念を、手際よく結びつけてしまう荒技に、新鮮な驚きを覚えたものです。 さて、東京JAZZのチケットが手に入ってから知ったことですが、このMosaique Projectは女性だけのバンドです。そして少し前にYouTubeで偶然みつけたEsperanza Spaldingという、アフロヘアーでキュートでタイニーでハッピーなベーシスト、それもダブルベースを操りながら、わりとアーバンで同時にアーシーな歌をうたう(外来語ばかりでごめんなさい、イヤな感じですね(苦笑))、しかもダブルベースを弾きながら歌う、このガゼルのようにしなやかでバネのありそうな女性がメンバーと聞いて、まずはそのパフォーマンスを体験するのがめあてでした。 ところが、このユニットを一聴して際だっていたのはその強さでした。 強さというのは争って勝つための強さではなく、争わないための強さです。他者を圧倒する強さではなくて、他者を引きこむ強さ。引きこむのだが、引きずりこむのではない自立した自我の呈する輪郭。 こういった強さが揺るぎない軸としてバンドを貫いているのは、リーダーであるドラマーのTerri Lyne Carringtonによるところが大きいのですが、それでもバンドは萎縮することなく、ひとつひとつのパフォーマンスにじぶんたちの役割をきっちり適応させながら、音楽としての完成度を可能な限り追求してるように見えました。 彼女たちがパフォーマンスを最高のものにするための不文律はかけひきや譲歩や牽制です。それに形容詞を付するなら洗練されたモダニズムです。 ジャズという音楽は1950年代から60年代にかけてビバップと呼ばれる流儀が全盛となり、ミュージシャンはみずからのアドリブを振りかざし、切った貼ったのバトルを繰り広げました。 刺激的でスリリング、一発勝負の即興演奏ですから、やり直しはききません。たいへんな緊張感、もしくはイマジネイションにすべてを託すがゆえの恍惚と忘我と疾走感が全身を貫くのでしょう。 そのせいかどうか知りませんが、何人もの若いミュージシャンが夭逝し、ある者は薬に溺れて表舞台から消えてゆきました。 Miles Davisもクスリに頼っていたJohn Coltraneを戒めたというのは有名な話で、そのMiles自身もかつてクスリに溺れていたことがありました。 当時黒人が置かれていた社会的状況から薬物に依存する者が後をたたなかったということはあるにせよ、常にBlueNoteやVillage Vangardなどのジャズクラブで毎夜毎夜、弱肉強食のバトルを繰り広げる日々に、彼らのアドリブのアイディアはとてつもなく多様になっていくいっぽうで、とうぜんその裏ではアイディアの枯渇と消耗もあったに違いありません。 ・・・・ ステージは左から、ピアノ、ベース、ドラムス、アルト&ソプラノサックス、トランペット。 ヴォーカリストが登場するときはその楽器で形作られた弧の中心、矢をつがえるあたりに立ちます。 各楽器がその役割を果たしつつ、センターにいるヴォーカルは、あるときは語り部のように中心にいて語り、またあるときは楽器の一つとして、女性たちのポリフォニックな語りのなかに居場所を見いだします。 ビバップの時代にはマッチョであったジャズという音楽のバトルフィールドが、50年の時を経るうちにひとりひとりのミュージシャンの存在によって化学作用を引き起こし、変化してきました。 この日、パフォーマンスとして切り取られた2010年現在のひとつのアンガージュマンの様相とは、フェミニンな語りの場、音楽に語らせるものとして生成する音の場であったわけです。 耳を澄ましてごらんあそばせ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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