今日も「99.9%は仮説*竹内薫著*光文社新書」ネタをもとに、色々と遊んでみます。
以下、原文P160からの抜粋です。
「大仮説」と呼ばれる仮説があります。
現在の常識から考えると、ちょっと疑わしい仮説のことです。
でも、そんな「黒い(まちがっているように思える)仮説」であっても、頭ごなしに否定すること
はできません。もしかしたら近い将来、大発見によってこれまでの常識がひっくりかえって、
大仮説こそが「白い(正しいと思える)仮説になっているかもしれないのです。
「知的設計者」大仮説
いまのアメリカで物議をかもしだしている科学論争に、「インテリジェント・デザイン説」というも
のがあります。直訳すると「知的設計説」ですね。まずはその話をしてみましょう。
人類の起源の話です。
むかしは、聖書の記述通り、約6千年前に人類は神によって創られたという「創造者説」が一
般的でした。
それに対して、すごく原始的な生物から40億年という長い時間をかけて少しずつ進化してい
ったものが人類であるとしたのが、チャールズ・ダーウィン(1809~1882)です。
ひとことでいうなら、知的設計者説というのは、このダーウィンの「進化論」に対する対立仮説
なんです。
これは、カリフォルニアサンディエゴ校で1999年に作られた仮説です。
宇宙のどこかに知的設計者がいて、その知的設計者がDNAを設計して、生物を創りだした
という説なんですね。だからこれは、形を変えた創造説といえなくもない。
ただし、聖書に書かれているような神様ではなく、あくまで知的設計者という言い方をします。
さて、この説を高校や大学で教えていいのかどうかという議論が、いまアメリカで盛んに行わ
れているのです。
「進化論は正しい、検証された仮説なんですよ」というように教えるべきか、あるいは「進化論
はたくさんある仮説のうちにすぎず、対立する仮説としてはたとえば知的設計者説というもの
がありますよ」というように教えるべきか。そういう論争なんです。
日本では、まだこの問題は論じられていませんが。
それでブッシュ大統領が、この問題に関して、後者(知的設計者説)のようにしたほうがいい
だろうみたいなことを公の場でいったもんですから、一気に大騒ぎになっているんです。
「進化論を信じているのはたった37%」
13歳から17歳までのアメリカの若者に、ダーウィンの進化論についてアンケートをとった結
果があります(出典は「ネイチャー」誌2005年4月28日号)。
それによると、ダーウィンの進化論は証拠によって支持された、検証済みの科学理論である
と思っている人は37%。
たくさんある仮説のうちのひとつにすぎず、それなりに検証されているが確定的ではないと思
っている人は30%。
残り33%の人は「わからない」という結果です。
この結果をみると、アメリカの若者のあいだでは進化論が揺らいでいることがわかります。
中略
さて、この論争のそもそもの発端は、バージニア州フェアファックスにあるジョージメイソン大
学のキャロライン・クロッカー教授が、生物科学の授業で知的設計者説を教えて謹慎処分を
うけたことにあります。クロッカー教授は、べつに知的設計者説が正しいと教えようとしたわ
けではなく、「こういう説もあるんだよ」ということを、進化論を教えるときに一緒に教えようとし
ただけなんです。それなのに学部長からとがめられ、謹慎処分まで受けてしまった。
これが原因で、はたして高校や大学の授業でこの説を教えるべきかどうかという論争にまで
発展したんです。
以上、「99.9%は仮説」から抜粋。
おもしろいですね。私はこういうネタがあると、ウキウキしてしまいます。
私がこのように反応してしまうのは、今まで教えられてきた考え方に抵抗しているだけなのか
もしれませんが、発想が自由になるといった点で、ついついワクワクしてしまうのです。
従来までのパラダイム(規範・社会において優勢な考え方)は、世の中はこういうもんだ、教
えられたことを信じ、それに従えばいいというような感じが多かったように思います。
でも、新しい考え方は、白(正しいと思える)もあり、黒(まちがいだと思える)もあり、グレー
(その中間)もあるというものです。
私たちが人と衝突する原因の多くは、他人との考え方のちがいがあるためだと思います。
でも人がお互いの文化のちがい考え方のちがいを知り、コミュニケーションをとりあい、衝突
している事柄の背景を知ることで同意できる点を探すことができます。
本当に自由な発想は、このような環境があってはじめて、創造的なものが生みだされるとも
思います。
お互いに否定しあうのではなく、お互いの考えのよい部分を探していくこと、これが本来のコ
ミュニケーションと言えるのではないでしょうか?
日本人は、どちらかというと事なかれ主義の傾向があると思います。
優勢な考え方にとりあえず従っておけば、自分は安全というような態度です。
この考え方も、悪いところばかりではないのですが、自分なりの考え方を出さずにだまってい
ることは、ある意味で同意していることになります。
たとえ自分の考えが間違っていても、「これは私なりの考え方です」と自分の意見を主張した
ほうが、コミュニケーションが活性化すると思います。
また何が正しいか、まちがっているかということも、それぞれの背景や目的がちがっていれ
ば、その見方や方法論もちがって当然といえます。
でも、それらのちがう意見の中から、どちらが正しいと争うのではなく、お互いを高めあう、お
互いにとって利益が出る答えを探しだす過程が、これからは大切だと私は考えます。
一見まちがっていると思えることの中にも、偉大なヒントが隠されている場合がたくさんありま
す。
またもしそれが本当にまちがっているなら、それを最大の教訓にして、二度とその過ちをくり
返さないための指標にすることもできます。
こう考えれば、すべてのことを有効に活用することができます。
つまり、白か黒、そしてグレーにとらわれるのではなく、
その全部を楽しむという考え方をもち、
そのすべての選択肢の中から、
各個人が自分の中で最適な考え方を自由に採用していくことが、
これからのコミュニケーションの手段、そして教育などに求められているように思います。
「ゆらぐ進化論!」というテーマからだいぶズレてしまいました。
ところで、みなさんは「進化論についてどのように考えられていますか?」