カテゴリ:キネシオロジーについて
現在、『スッタ・ニパータ*アルボムッレ・スマナサーラ著*佼成出版社』をまとめているところですが、今朝ふと以下の一節
「人間が一般的に、自分には色々なトラブルがある、問題がある、と思ったら、それは99%が怒りによるものなのです。 金銭トラブル、社会関係のトラブル、精神的なトラブル、そういったトラブルは、ほとんど「怒り」が原因になっています。 心理的なレベルから見ると、これは大変なことなのです。 社会の人々を見ても、「まあ問題ないですよ。 いつも楽しく明るく幸せに生きていますよ」という人々の数は少ないのです。 いつでも忙しくて、びくびくしながら緊張とストレスをためこんで生活をしている人のほうが、そうでない人よりもかなり多くなっているのです。 とどのつまり、「怒り」で生きている人々は、とても数が多いということです。」 とありました。 それと私が学んで現在も活用しているスリーインワン・キネシオロジーの『振る舞いのバロメーター』との関連を少し考えてみました。 大まかな項目を示しますと 「意識レベル」 受け入れる 反感 意欲 怒り 興味 恨み 「潜在意識レベル」 喜びに満ちた 敵意 確信して 失う恐怖 同格 悲痛と罪の意識 「身体意識レベル」 調和 同調 麻痺 ひとつである 分離感 選ぶ 選べない このチャートは、時系列のつながりとして受胎時より順に、思考・感情・振る舞いの発生の流れを表現しているようです。 身体レベル→ 潜在意識レベル→ 意識レベル 「選ぶ・選べない」→ 「同格・悲痛と罪の意識」→ 「興味・恨み」 「ひとつである・分離感」→ 「確信して・失う恐怖」→ 「意欲・怒り」 「調和同調・麻痺」→ 「喜びに満ちた・敵意」→ 「受け入れる・反感」 というように、身体記憶から生まれる記憶による反応パターンを示しています。 また「選ぶ・選べない」という意識の状態は、ある状況におけるコインの裏表、相対的な次元におけるポジ・ネガというような両極の選択肢であることを示してもいます。 そして、身体レベルで、人が自分で「選んでいる」ときは、 潜在意識レベルで、人や何かの対象と「同格かつ対等」であるパターンをもち、 意識レベルにおいて、「興味」をもって状況に対応するというパターンがあります。 逆に、身体レベルで、人が自分で「選べない」と感じるときには、 潜在意識レベルで、自分は力がない、無力であると感じ、自分はどこかおかしいに違いない という思春期によく感じた「悲痛と罪の意識」のパターンに引きずり込まれ、 意識レベルにおいて、「恨み(言わずに黙っている)」をもって状況に反応するというパターンがあります。 上記のような『振る舞いのバロメーター』と、テーラワーダ仏教における「噸瞋痴(トンジンチ)」という人間を決して幸せにしない生き方とどのようなつながりがあるのかなぁ~と、ふと覚書ていどに今回は、日記に書いてみようと思いました。 ですから、これは私の個人的な推論であり、3in1キネシオロジーの概念と仏教の概念が明確に対応しているかどうかは、あくまで仮定でしかありませんので、あしからず・・・ 今度は仏教における人が苦しみを感じ、幸せを感じることができない状態の根っこにある3大項目について書いてみますと・・・ 貪(トン):むさぼりの心 瞋(シン):怒りの心 痴(チ):気づきのない無知の状態の心 があります。 これを3in1キネシオロジーの振る舞いのバロメーターと対応させてみると。 不痴(フチ)-痴(チ)のライン 「選ぶ-選べない」→「同格-悲痛と罪の意識」→「興味-恨み」 不瞋(フシン)-瞋(シン)のライン 「ひとつである-分離感」→「確信して-失う恐怖」→「意欲-怒り」 不貪(フトン)-貪(トン)のライン 「調和同調-麻痺」→「喜びに満ちた-敵意」→「受け入れる-反感」 というような波動的なラインと考えることもできるかな!? というのが今朝のアイデアです。 ところで、仏教では貪心痴の反対を実践することの大切さを強調しています。 まず噸瞋痴の反対の用語を示しますと、不貪(フトン)・不瞋(フシン)・不痴(フチ)という言葉があります。 これは、簡単な言葉で言うと、むさぼらないこと、怒らないこと、気づいていること、です。 これを上記のバロメーターと対応させると、 「選ぶ」ことは不痴、「ひとつである」こと不瞋、「調和同調」は不貪の波動と一致する 思考・感情・振る舞いのラインということができると思います。 しかしながら、仏教では俗世間・世間的な真実に関しては、明確にポジティブな状態を推奨していますが、出世間的には、それらにも囚われないあり方を目指していることが大きな特徴である、と個人的に考えています。 一般的に考えられてるポジ・ネガという両極にもいない境地・分離の概念が消滅し、あるいは概念そのものの必要性のない境地があることを示されているのかもしれません。 さて、今朝のアイデアはここまでなんですが・・・ 奇跡講座(ACIM)的には、選ぶことすら必要のない対象の存在すら必要の無かった存在の状態こそが、私たちの本質であるというような概念があります。 仏教では、神やスピリットという名称をつけてはいませんが、「涅槃(ネハン)」という、「地獄・餓鬼・畜生・人間・阿修羅・天界」という6つの次元、あるいはこの世、かの世(別の次元のすべて)から離れた境地に至る教えの道があります。 また仏教では禅定(ゼンジョウ)とよばれる心を究極まで集中していき、その結果、対象との完全なる一体感により空間に溶けていく存在の状態に入る瞑想により、至福状態をつくりだす境地があります。 これによって時空を超えた存在の状態や無我の境地を体験するということです。 禅定には、色界の瞑想、無色界の瞑想というように5段階に至る境地があるとされています。 この状態は、身体や時空・次元を超えた境地に入り、一時的に煩悩が抑えられた状態にありますが、お釈迦様に言わせると、まだその状態では悟りに達していないと言うことです。 この境地に完全に達することができたなら、次に時間の次元に戻り、肉体を通して心に現れる現象をありのままに見つめ、心に無明が広がらない状態を保ちつづける気づきの(ヴィパッサナー)瞑想の実践により、肉体を離れるまで心を清浄な状態に保つということです。 また、お釈迦様の偉大な教えがすばらしいのは、自ら(自我)が本当に無いことに気づいたなら、外側の対象だと信じていた他の存在が、真理を自覚し、輪廻の束縛を断ち切る方法を教える道を説き、その状態で自らの肉体が消滅するまで実践されたことにあると思います。 お釈迦様は、世間と出世間の真理を悟られた当初、この悟りの教えを説いたとしても、この深遠な真理を誰も理解することはできないと考えられ、教えを説こうと思わなかったとされています。 そこへ梵天(ボンテン:古代インドのバラモン教の主たる神の1つであるブラフマーが仏教に取り入れられたもの)が現れ、何度もブッダに教えを広めることを懇願された、ということです。 その後、お釈迦様は、般涅槃(ハツネハン)される瞬間まで教えを説かれたことが経典に記載されており、その伝統が仏教に受け継がれているということです。 お釈迦様が身をもって、人格の完成、もうこれ以上学ぶ必要のない境地のモデルを、私たちに示されたことは、私たちが最終的に何を目指して生きることが至福であり、正しい道であるのかという道しるべとして、最上級のモデルを提供してくださったと感じる、今日、この頃です。 最後は、集中力が切れて、まとまりのない終わりになってしまいましたが、今後も、テーラワーダ仏教やブッダの心理学と様々なセラピーとの関連などを、個人的に学んでいきたいと思っています。 ではでは お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011.07.16 07:31:45
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