カテゴリ:本
娘が図書館から借りてきた本を、学校行ってる隙に読破。東野圭吾の本を初めてちゃんと読みました。超面白かった。
人はどのタイミングで死ぬのか?何をもって死とするのか?というすごくデリケートな問題を、医学・政治経済・親子・心霊という考えつく限りのありとあらゆる方面から考察して、それをひとつの物語にしてみせる。やっぱり東野圭吾ってすごい。 これを読めば、現代日本の抱える「死」をめぐる問題がすべてわかるといっても過言ではないと思う。 現代日本で子供の「脳死」を決めるのは医者でなく親だということ、知ってましたか?私は初めて知りました。そしてそれが日本の移植医療の大きな壁になっていることも。 タイトルの「人魚」は、プールの事故で二度と目覚めなくなってしまった少女の事です。 自発呼吸も出来ない、脳波も無い、もう目覚めない、でも見た目には眠っているようにしか見えない。 触れば温かいのに、「じゃあ脳死ってことで良いですか?人工心肺取り外しますね」言われて「どうぞ」と答える親なんかいない。 親は答えを出せないまま子供の身体が衰弱して自然に(自然?)心臓が止まるまで、ただ見守り続けることになる。人によってはそれが何年も続く。 例えばこれこれこういう状態になって、絶対に目覚める可能性が無くなりました、はい脳死と判断します。ということを医療側が決められるのならば、その心臓なり臓器は新鮮に元気なうちに国内で移植を待っている子供たちに届くこともあるだろう。 でも医療は厚生労働省は国はその判断を放棄して、親に委ねてしまった。 親は親である限り、子供の命の綱を切ることなどしない、出来ない。 そして移植医療は手詰まりを起こしている。 対してIT医療機器の発達はすさまじく、人の筋肉や神経から出る信号をコンピューターにつなぎ変換して動かす仕組み、逆にコンピューターから指示を出して筋肉を動かすシステムも開発されつつある。 どういうことか? 眠り続ける少女に機器を繋げて、あたかも自発的に呼吸し、動いているように操作することができるのだ。 もちろん莫大な資金が必要になるので現実には実用化は難しいだろうが、そこは「少女のパパがそういう会社の社長で」と実にうまく物語になじませている。 普通の寝たきりの患者でも、日に数回は寝返りをうたせる必要がある。 少女の母親は機器を使って、少女を運動させることにのめり込む。目覚めない少女が立ってお辞儀をして、手を差し出せるようになる。果たせなかった夢と、気持ち悪さの絶頂の描写が素晴らしい。 目覚めない娘を生きているものとして扱う家族だが、(実際「死」んではいない。)弟の就学でそのおとぎ話のような世界に亀裂が入る。「お前の姉ちゃん〇んでるのに入学式とか連れてきてキモイ」と容赦ない現実世界からの攻撃。 キレた母親が自宅に警察を呼んで包丁片手に「娘は目覚めません。今わたしがこの子を殺したら、私は殺人者となりますか?」と叫ぶクライマックスーーーーー。 そして少女の死は訪れる。 本人の魂が「さよなら」と母親の枕元に立つのだ。 いわゆる伝統的な「死」の作法。 東野圭吾うまい。 最後に医師と父親との会話で物語は締めくくられる。 「どのタイミングがお嬢さんの死だと思いますか?」 「そりゃあ溺れて心臓が止まった時だろう。」 そう、医療技術が発達していない時代の、すごくシンプルな「死」の定義。これも正しい。 「だとしたらお嬢さんはまだ死んでいませんよ」 少女の心臓は、別の子供に移植され、生き続けている。 東野圭吾ほんとうに上手い。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年03月03日 14時04分57秒
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