誓願は、立てません。(未定稿)
民数記第30章概要に”請願”と書いて平気でした。 とても、機械的にブログに書き残していた私です。悔い改めます。 そして、過ちを重ねているのですが、聖書のテキストに入らずに ≪女の誓願ばかり、書かれているが、男はどうするのかな。≫ ≪誓願の内容は何?≫ ≪「聞いた。」とは、「私は、このような誓願をします。」とアナウンスするのか?≫ 考えてしまいます。 マタイさんによる福音書第5章34節『いっさい誓ってはならない。』とイエス様が話されたので、私は注意しています。 旧約聖書民数記の「誓願」の個所は≪絶対主義としてのユダヤの戒律≫と、半ば読み飛ばしてきました。 天において、対抗試合に際して、「自分勝手な祈り」やら「反対する両派の祈り」やらが、混在していると思いませんか? 試合の前の祈りとしては、お互い『相手のチームが最善の結果を表わすように』だと信じます。 『だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか。』(ルカさんによる福音書第12章第14節新約聖書109ページ)では相続争いに巻き込まれそうになったイエス様のお話は第28節に続きます。『信仰の薄い者たちよ。』ただ、御国を求めなさい。 「入学試験合格」「良縁成就」は、偶像の神社に満ち溢れているではありませんか。全員合格を原則にしたら、日本の大学は東京大学一校になるでしょう。 私も入試にチャレンジしています。「人の五倍の努力を払え」は、Kさんが私に投げかけた課題でした。 奇しくも本日には、K大学H学部の科目履修生試験の結果発表です。「もう一年続くかな?」が今の思いです。 先ほど発表を見てきました。受験者5名中”聴講生一名”、”科目履修生一名”が合格でした。 受験番号3は、茶髪の若い男性で私は心の中でこの人は駄目だろうと思っていたので大変ショックです。外見で差別していたのではないかと恥じています。 今年もう一年努力して来年受かったら先輩として尊顔を拝しに参りましょう。