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テーマ:ダム(19)
カテゴリ:ダム
鎌倉時代、水路として瀬が開削された地らしい。今は水中に没したが、当時、この事績を刻んだ岩があるそうだ。舟で鉄を搬出していたらしい。 成羽川の水源は、道後山で、その山頂部は、たたら場の薪にされて木がないとの書き込みがあったが、どうなのだろうか。いつか辿ってみよう。六甲の緑は植林で明治開化時は薪にされて禿山だった写真が残っているので、案外そうなのかもしれない。 右岸の山の頂には城跡があり(紫城跡 資料はこちら)、向かいの左岸の奥の山頂にも城があったらしい。戦国時代も要衝であったらしい。ダム直下の成羽川右岸にある谷を上りきると平川氏館跡、金子山城跡があり、備後との国境となるらしい。平川氏は戦国期に城下町を創り上げたそうで、毛利とは昵懇であった記録が残っているらしい。 ダムは昭和40年代の瀬戸内の工業用水と電力を確保するために設えられたらしい。今も重要な水源らしい。湖の名は備中湖。没して立ち退いた多くの家の名が石に刻まれていた。歴史のある村落だったのではなかろうか。 竣工後、半世紀経つが、重力式アーチダムとしては、国内最大らしい。堤体に立つと鈍い響きが聞こえ、盛んに発電していた。 鎌倉時代からの産業史のある地に吉備高原の開析を足場に湾曲した堤が水をたたえ、その高さは100メールを超え、山中に鎧の様にそびえていた。 104:軽尾城跡 110:袈裟尾城跡 111:紫城跡 109:北丸城跡 吉備高原の高梁川と成羽川による開析がわかる。高瀬舟が通う川では、合流地域が要衝のようだ。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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