加藤千蔭という人
加藤千蔭という人について調べたくなった。今までに調べたことをメモしてみたい。多くのHPに感謝いたします。履歴等、ご存知よりの方がいらっしゃったら情報をお寄せ頂けると有り難い次第です。加藤千蔭(かとう・ちかげ)1735~1808(享保20~文化5)父は加藤枝直(かとう・えなお)1692~1785(元禄5~天明5)。伊勢国松坂生まれで橘氏。江戸南町奉行大岡忠相越前守に与力として属す。賀茂真淵と親交し、居を自らの邸内に移して文学の教授を得た。若き日の青木昆陽も邸内の貸家にいたことがある。千蔭。枝直の三男。姓は橘、本名は佐芳、要人(かなめ)。字は徳与麿(とこよまろ)。通称は常太郎、又左衛門。号は芳宜園(はぎぞの)、うけら園、耳梨(みみなし)山人、逸楽窩(いつらくか)、江翁(ごうおう)、橘やちまた(狂歌)など。幼少から父に歌を学び、10歳から以後26年間、賀茂真淵門下。村田春海(はるみ)、楫取魚彦(かとりなひこ)、加藤宇万伎(美樹・うまき)らとともに県門(賀茂真淵門下)の四天王と呼ばれた。本居宣長との交友もある。著書は千蔭本として流布。父の跡を継いで吟味方与力となり、寛政の改革に当たる天明8年病により子に家督を譲り辞職。八丁堀で学徒に教授しつつ学問に専念。文化5年正月、「橘千蔭」と自筆した紙を両国の回向院の住持に託し、その年の9月2日に没す。本所深川の回向院に眠る。書画にも通じ、絵は建部綾足に学ぶ。書家としては千蔭流の開祖。能因法師の末裔だとも。上田秋成には「胆大小心録」で貶される。向島百花園(新梅屋敷)に梅の木を寄贈したりしている。「うけらが春」「万葉集略解」(将軍に献進され銀10枚を下賜された)「万葉新採百首」「香取日記」