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2022年02月22日
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カテゴリ:結跏趺坐
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報徳記を読む 第一集

1 『報徳記』と著者・富田高慶について
『報徳記』は、二宮尊徳の伝記である。著者は二宮尊徳の高弟、富田高慶〔とみた・こうけい・通称久助(文化十一年~明治二十三年/1814~1890)〕である。『報徳記』は、全八巻あり、本集は一巻の原文に総ルビをふるとともに、現代語訳を収録した。
 富田高慶は磐城(いわき)郡、現在の福島県にあたる相馬中村藩[相馬藩]の藩士である。
 富田高慶は、文化一一年(1814)に相馬中村藩士の次男として中村に生まれた。天明飢饉(1783~84)から四十余年が過ぎ、いまだに困窮している相馬藩の財政を心配した富田は、十七歳のときに藩の復興を志して、修学のために江戸へ出た。苦学十年、復興策を見出すことができないで悩んでいたとき、偶然に下野国(しもつけのくに)現在の栃木県の桜町における二宮尊徳の復興事業の成功を耳にした富田は、尊徳こそが自分が求めていた師であると直感して、野州(やしゅう)芳賀郡(はがぐん)物井村(ものいむら・現栃木県)に尊徳を訪ねた。天保十年六月一日、富田久助二十七歳の時である。しかし、尊徳に面会を拒否され、富田は近くの村で寺子屋の教授をして時期を待って、半年後にようやく入門を許された。
尊徳のもとで勉学に励んだ富田は、尊徳の門人の筆頭に上げられるほど、尊徳の信頼を得た。
 富田は相馬藩の江戸家老・草野正辰(まさとき)に二宮仕法を導入することを進言した。草野や国家老・池田胤直(たねなお)など、富田の熱誠に動かされ、尊徳に面会し報徳仕法に理解を深めた。そして相馬藩内の仕法導入が決定し、藩主・充胤(みつたね)は二宮仕法を導入するため、尊徳に面会した。高慶が尊徳に入門してから七年が過ぎた、弘化二年(1845)、相馬藩で二宮仕法が始まったのである。
 当時、多忙を極めた尊徳は相馬へ一度も来ることはなく、高慶が尊徳の代理として仕法を実施した。相馬仕法は、全国に導入された二宮仕法の中で、最も成功したものの一つと言われている。
 「報徳記」は、高慶が尊徳の生き方や考え方を八巻編成に著したもので、もっとも古い尊徳の伝記である。安政三年(1856)十月に尊徳が亡くなると、尊徳の伝記を編む話が持ち上がり、高慶自ら伝記編成にあたり、早くも十一月には報徳記の原稿を作成した。執筆直後はごく限られた者だけが閲覧できたが、明治十三年に相馬藩元藩主充胤が『報徳記』を明治天皇に献上した。明治十六年には宮内省版が全国の知事職以上の明治政府高官に配付され、明治二十三年に、農商務省から一般向けに刊行された。尊徳の思想と業績を詳述してあり、最も信頼できる資料とされ、今日出版されている二宮尊徳関連の書籍の多くは、『報徳記』が典拠になっている。二宮尊徳のイメージは、この報徳記によって形づくられたと言える。(以上、相馬市の「相馬の歴史講座」を参照した)。
 二宮尊徳の一生は、大きく三期に分けられる。
第一期は小田原の栢山(かやま)村の百姓の時代、第二期は小田原藩主大久保忠真侯(ただざねこう)の命で宇津家領有の桜町三村の復興にあたった時代、第三期は幕臣に登用され幕府領の復興に当った後、最後、日光仕法従事中に逝去するまでの時代である。
 本集に採録した『報徳記』第一巻は、第一期の小田原時代と第二期のうち文政十二年(1829)の成田山参籠(さんろう)までの時代を記している。
 富田が二宮尊徳に師事するのは天保十年(1839)で、成田山参籠の十年以上後のことであり、第一巻の叙述は、富田が伝承、伝聞等によって記述したものであり、相馬仕法等の富田が直接見聞きしたものを記録したものではなく、必ずしも事実とはいえない。
 そのため資料編に、尊徳の四大弟子の一人、福住正兄(ふくずみ・まさえ)の『二宮翁略伝』を資料として掲載した。福住は神奈川県平塚の庄屋の出身で、二宮尊徳に師事した後、小田原に近い湯本の温泉宿の養子となった。地元の人として、あるいは、小田原時代の二宮尊徳についての記述は、より正確であるかもしれない。併せて読んでいただきたい。





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最終更新日  2022年02月22日 06時00分08秒



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