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2022年02月23日
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カテゴリ:結跏趺坐
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報徳記を読む 第一集 

2 福住正兄口述『二宮尊徳翁(おう)略伝』を読む
報徳教祖二宮尊徳翁略伝(現代語訳。原文は漢文)
ああ尊徳二宮翁。真にまれな世の偉人というべきである。しかし天性へりくだって恭しく、常に自分の功績を説かない。 少し門人の口伝えが有っても、万の一もない。今に及んで、これを記録しなければ、その徳業は、煙のように散じ、霧のように消えてしまう。惜しまずにいられようか。このためその概略を記録し略伝とし、その詳細については、言行録の著作に付すこととする。
翁の名は尊徳(たかのり)。通称、金次郎。相模国(さがみのくに)、足柄上郡栢山(かやま)村の人。父は利右衛門(りえもん)と称する。母は曽我別所村の川窪某の娘である。天明七年七月二三日に生まれる。その先祖は曽我氏に出る。考えるに、曽我太郎平祐信(そがたろう・たいらのすけのぶ)の一三世の孫で二宮祐周(すけちか)という者が有り、翁はその子孫になろうか。
翁、はじめて五歳、酒匂川(さかわがわ)が洪水し、堤防を破って、その被害は数十村に及んだ。そして利右衛門の田畑の被害をこうむること、もっともはなはだしかった。家産はこのため尽きてしまった。利右衛門は朝早く起き夜には寝ずに、その力を開拓に尽くした。ところが病気にかかって、なすことなく年数を経過して亡くなった。時、寛政一二年九月二六日。年四十八。翁の年は十四。二人の弟がいた。なお幼く、その上、母がまた病気にかかり、遂によくならなかった。年三六、実に享和二年四月四日である。この年六月、酒匂川が再び洪水となり、田畑はすべて流亡した。生活の道を断たれ、二弟を母の生家に預け、翁は自ら伯父の万兵衛の養うところとなった。日夜、農事に勤め、幼くして貧困に陥ることについて感ずるところがあった。嘆いて言った。天下憐れむべきものは、ただ貧である。私がもし家を復興できたら、ひろく貧しい人を救う法を設けようと、天地神明に誓い、少しの間も忘れることがなかった。この年の春、川べりの石ころの地をみて、油菜(なたね)をうえ、菜種を少し得た。これを市場に売って、油に換えて、昼は家の仕事を務め、夜は縄を索(な)い、わらじを作った。夜になって、家の人が寝てから、書を読み算術を学んだ。万兵衛これを知って、誡(いまし)めて言った。「お前は学問して、はたして何の用をなそうとするのか。かつ夜、寝なければ、明日、身体が疲れて、必ず業を怠るようになる」。翁は自ら間違っていましたと謝って、これをやめた。これから暇があると、ひたすら、わらじを作って、それを金銭に換え、貧しい人を恵んだ。五、六月の候、外の空き地を耕し、棄て苗を拾って、ここに植え、耕し、草をとって培養し、一俵余りを得た。おもうにこれは天の賜(たまもの)であると。およそ物事は、小を積んで大を致すのが必然の道理である。そのため一生懸命努めて怠らなければ家を復興する資本とすることができよう。これが後に、報徳方法がよって起こったところである。
 その翌年の春、万兵衛の家を辞して、小田原にいたった。小田原藩家老の服部氏に三人の男子があった。皆よく読書した。尊徳先生はこれを見て、心ひそかにこれを喜んで、自分から頼んでこの家の若党にしてもらった。夜はその子らの読書のかたわらに座し耳をそばたてて聞き、ついには四書〔大学・中庸・論語・孟子〕に通じ、暗記するまでになった。また、その三人の子が学校に行くとき付き添い、講堂の窓の下にたって、ひそかに講義を聴いて、おおむねその文章の意味を理解した。
ある日、飯泉村(いいずみむら)を過ぎ、観音に詣でて、僧がお経を読むを聞いた。問うて曰く。「今読まれたお経は何ですか」。僧曰く。「法華経の普門品(ふもんぼん)です」。曰く、「平日聴くところに異なるのはなぜですか」。曰く、「世の読むところは音読です。今私が読むところ訓読です」。そこでお願いして再びこれを読んでもらった。翁は明らかに大いに悟るところがあった。曰く、「み仏の教えも、また世を救うことにほかならない」。志はますます堅くなった。
その後、服部氏を辞めて家に帰り、専ら農業に従事し、家を復興することを一生懸命勤め、さらに貧しい人を恵んだ。しかし余分な資産が有ったわけではない。親戚の勧めで妻をめとった。その妻の性格は、吝嗇〔りんしょく・けち〕で、先生が貧民をあわれんで救助するのに多額の費用をかけるのを喜ばなかった。そこでしばしば止めさせようといさめた。先生は何事もなかったかのように続けた。そこで妻は離別を願い出た。先生はこれを許された。一人でつとめ励んで、いよいよ困窮した人達を救い恵まれた。
 後に、服部家に災いがいろいろ起こり、家計が非常に苦しくなった。しかも家計を取り締まる人物がいなかった。そこで先生のもとに復旧してほしいという依頼がきた。先生は再び服部家のもとに行き、日夜、一生懸命勤めて、数年で借金をきれいに払い、しかも余財を生ずるまで立ち直らせた。先生はしばしば藩の重臣に説いて小田原藩の貢米のときに使う桝を改めることを願い出た。百方、力を尽くし、ついに枡の改正が実現した。領民は大変これを喜んだ。 後、また服部氏を辞めて、再び飯泉村某の娘をめとった。一生懸命努力してついに初志を達成することができた。文政元年、藩主は褒賞して金帛を賜い、これを誉めた。
これより先、小田原侯の支家、宇津氏の領有地、下野国芳賀郡物井(ものい)村があり、およそ四千石。土地は痩せて、これに加えるに天明年間に飢饉で人口が減り、田畑はすべて荒れ、年貢もしたがって減じた。宇津氏の困窮もまた極まった。小田原藩はこれを憂えて、しばしばいくらかの金を出して、これを救ったが、効果がなかった。侯は嘆いて言った。「私の分家の復興を藩士にまかせたが、なお、木によじのぼって魚を求むるようで、どうして救うことができよう。やむをえない、二宮にまかそう」。そこでその任務を翁にまかせようとした。その地を実地調査させ、治めさせようとした。再三、固辞したが、ゆるされなかった。
そこで、文政四年、任地に行って建議して言った。
「かの土地は非常に土が痩せています。今、四千石ですが、これは空しい石高です。すでにいくらかの金を費やして開拓し、収税を厚くしています。百姓がどうして生活できましょう。人口がどうして増えることができましょう。このため称するに四千石でなく二千石としなければなりません。二千石の地として、これを開拓すれば、方法がないわけではありません。そうでなければ、むしろ実施しないほうがまさっています」。なお詳細にその方法を問うた。翁は言った、「荒地をひらき、廃村を興すことは、実に難しい事です。この難しい事をなしとげるには、皇国開闢(かいびゃく)の大道に由らなければなりません。それ、開闢の道にしたがって、これを行えば、失敗する心配がなく、事を誤まるわけがありません。従来の方法のように、いくらかの補助金があれば、そのために人々は皆、心をその金に奪われて、いつわりが百出し、ついに荒廃にいたります。ですから始めからこの金が無ければ、この弊害が生じません。思うに開闢(かいびゃく)の時に、海外から金を借りるというような事はありませんでした。皇国は皇国の力をもって国を治めました。ですから志を天孫が豊葦原(とよあしはら)に天降(あまくだ)った始めに基づくならば、どうして失敗することを心配することがありましょう。どうして事を誤る事がありましょう。荒蕪(こうぶ)を化して沃土(よくど)とし、廃村を変じて富村とする。難しいことではありません。このようにして失敗し事を誤るのであれば、臣には、ほかに意見はなく、方法はありません」。
侯は大いにこれを喜んで、文政五年、翁を抜擢して藩士とし、復興を委託した。翁は、前十年の収納額を調査し、平均法を以て宇津氏の地租の収納額とし、その他はすべて審査しない、更に開拓の事については、一々申すに及ばない。十年間、その実施についてはまかせた。そこで委託証書を作って、宇津氏及び本藩の印を押印した。翁はまたすべて田や家を売り払い、奮然志を決して、再び故郷に還(かえ)らなかった。家族を携えて物井村の桜町に移った。実に文政六年某月某日である。これより翁は自得した開拓の方法をもって実行に努めてやまなかった。挙直(きょちょく)奨励法、無利子金(むりしきん)旋回(せんかい)貸付法、報徳日課積金法等を施行した。徳化を敷いて、数年ならずして功績が大いにあらわれた。(以下略)
3 金次郎の誓い―精出して働いて父母を楽にする
二宮尊徳(幼名金次郎)は、江戸時代後期の小田原藩栢山(かやま)村(現在の神奈川県小田原市栢山)で生まれた。父は利右衛門、母はよしで、金次郎は長男である。弟は二人、友吉と富次郎であるが、富次郎は幼くして亡くなった。金次郎の家はこの地方では中位の農家であった。父は病気がちで、酒匂川のたびたびの氾濫で田畑を元通りにすることがままならず、家は貧乏になり、金次郎は母の命でたびたび金銭・米穀等を借りにいって恥ずかしい思いをしたと娘ふみに述懐している(p.137)。
尊徳の弟の三郎衛門(友吉)の孫、二宮兵次郎が尊徳の孫の二宮尊親にあてた書状が『報徳の森』(佐々井典比古)に紹介されている。それによると、曾我別所の川久保の家で法事があり、父は病気のため、母が金次郎(十歳)と友吉(七歳)を連れて出かけた。ところが法事が終り、お坊さんを囲んだ会食になると、母子は客間ではなく、台所で食事をさせられた。母は食後、墓参を済ますと挨拶もそこそこに二人の子を連れ帰途に着いた。金次郎は母に「母さんは曾我へ参るときは、私たちは正客だとおっしゃいました。ほかの客は和尚同様本膳で座敷でした。母さんは台所で普段のお膳でしたがなぜでしょう」「父さんは病気、友吉は小さい。早く帰るためだよ」「そうではありますまい。皆と随分違いました。私は曾我が悪いと思います」母は涙が溢れ出てきた。金次郎は謝った。「母さん、私が悪うございました」。母は二人の子に言い聞かせた。「二人ともよく聞いて置いておくれ。父さんの病気勝ちは、元は酒匂川の堤が破れて田地が流れてのこと。不幸が重なり、何の蓄えもなく、貧乏して縁者の世話になり、何事も心にかなわず、馬鹿にされている。これは縁者が悪いのではない、こちらが悪い。人を恵む者など世間には稀。母が生れた里でも肩身が狭くて残念だけれど、こういう困窮の家で親子となるのも因縁ではあるけれど、親の未熟とあきらめておくれ」(同書p.216)。金次郎は暫く黙っていたが、きっぱりして答えた。「母さん、よく分かりました。有難うございます。私らを育てるために苦労なさる、ご恩は忘れません。でも、いくら貧乏でもまだ良い。私には父さんも母さんもあります。・・・父さんお母さん、きっと長命して下さい。私が成人したらよく精出して、きっと楽にして安心させます」(同書p.217)。この健気な我が子の言葉に母は機嫌を直し、「まだ年もいかないのによくそう言ってくれた」と二人の子の手を握って家に帰っていった。母の心とこの金次郎の誓いが「報徳の始め」である。
父は長患いをして、寛政一二年に亡くなる。母は幼い子三人をかかえ一家の窮乏はさらに甚だしくなる。金次郎は父亡き後、一家の主として支えなければならなくなった。ところが母も享和二年に亡くなり、親族会議で三人の子は縁者に預けられ、金次郎は伯父万兵衛の家に預けられる。金次郎は長男として我が家を再興することが目標となる。そのため、読み書き算盤程度は身につけたいと思った。しかし伯父は、農民に学問はいらない、という考えで、勉学しようとする金次郎を厳しく叱責し、やめさせようとした。金次郎はアブラナを育て菜種を油屋に売ることで油代を得て、夜中に勉学に励んだ。また増水でつかった空き地に捨苗を植え、一俵の米を得た体験から、「小を積んで大と為す」という天理を感得し、この方法で我が家を再興できると確信した。
父さん母さん、成人したらよく精出してきっと楽にして安心させますという少年金次郎の誓いが基本にあり、父母が亡くなって、同じ貧窮の境遇に苦しむ人々を救おうという願いへと昇華したのではないかと考える。『報徳記』に「先生終身父母の苦労に及べば必ず泣いて大恩無量を言う」(p.33)とあり、『略伝』に「我もし家を興すを得ば、博く貧人を救う法を設けん」(p.143)とある。弟に宛てた文久十二年二月の手紙に「家々で子孫が繁盛しているのは、皆が親を尊んでいることで、それがまた天道への追善供養」(p.188)とある。親を尊ぶことが報徳の始めである。

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・第2集、第3集は絶版ですが、第1集で読書会等されたい団体がありましたら、寄贈した図書館の奥付の連絡先が載っていますので、ご連絡ください。お譲りします。





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最終更新日  2022年02月23日 10時19分48秒



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