カテゴリ:社会科(地理・歴史)
なんか昨日の記事では、あまりに楽しかったので、「纒向遺跡(まくむくいせき)」のなんたるかも、どうして僕がこの説明会に行きたかったのかも何にも書いてなかったんよね(>_<)
さらっとでも書いとかなきゃって思ったので書くね。 「邪馬台国論争」ってあるでしょ。 去年、吉永小百合さん主演で映画化された「まぼろしの邪馬台国」ってのがあったけど、 あの「まぼろしの邪馬台国」は宮崎康平さんが書いた昔の本で、「邪馬台国北九州有明海沿岸説」を唱えたもので、この本が書かれた頃から「邪馬台国論争」ってのが盛り上がったんよね。 で、その諸説はいろいろあるんだけど、基本的には「北九州説」と「畿内説」という二つに別れた論争だなんていわれてる。 でね、僕はこの「畿内説」って言葉が嫌いなんだ。 どうして「キナイ」だなんて、昔のエリアを表わす言葉を使うんだよ(>_<) 今の言葉の「近畿」でいいと思うし、「畿内」もそれはそれでちゃんと意味があるんだけど、そんなのはどうでもいいし、そんなの畿内、畿内ったって奈良に決まってるんだから「奈良説」でいいじゃんね! で、その「奈良説」の中で、この桜井市の「纒向遺跡」からは最近日本中の様式の土器が出土することから、ここに中央集権的国家があったのではないかと言われてたんだ。 しかも、とても広い範囲にわたる大規模な遺跡なのに農耕に関する出土品がほとんど出土しないんだよ。 つまりね、ここはただの大きな集落ではなくて政治機構に関するような何かがあったんじゃないかと考えられてたんよ。 だって、食べ物を作ってる形跡はないのに日本中の様式の土器が出てるくる規模の大きい遺跡だなんてなんか変だもんね! つまり食料を供給する農村はもっと離れたところにあり、ここには関東や九州からの遠来の人間も居た場所みたいなんだ。 ねっ!めっちゃ怪しいでしょ!(^_-) で、その怪しい「纒向遺跡」から今回宮殿建築っぽい疑いのある建物の柱の跡が出てきたって訳よ!! それが3世紀中頃ってんだから、まさしく卑弥呼の都、邪馬台国の時代なんだもんね! で、僕の邪馬台国遍歴なんだけど、昔は安本美典先生に心酔してて、安本先生の「福岡県甘木説」を信じてた。 安本先生の「数理文献学」という古文書を数学的に読み解く方法は胸のすくような思いがして、いっときは夢中になって安本先生の本はもう全部読んだもんな。 だけどその後、謝銘仁さんの『邪馬台国 中国人はこう読む』って本に出会って、日本人の「邪馬台国論争」そのものを空しく思うようになった。 つまりね3世紀の頃の中国語についての専門家でもない日本人が「魏志倭人伝」の読み方を、ああでもない、こうでもない、って言ってることのあほらしさに気がついたんだ。 中国の古文の専門家だったら「魏志倭人伝」なんか新聞を読むように普通に読めちゃうわけよね。 じゃぁ、もう謝銘仁さんの読み方でええやんか! 「魏志倭人伝」の読み方で伊都国を中心にして放射状に読む榎説って読み方があったりして大論争が起ったのなんかも新聞の読み方で揉めてるようなものだもん(>_<) そんなんで、もう「魏志倭人伝」はいいやっ!って気になった。 日本のどこかから「邪馬台国」の遺跡が出てきたらそこが「邪馬台国」でいいもんな!(^_-)-☆ ちゅう訳で「纒向遺跡」が「邪馬台国」であり、今回調査されたところが「卑弥呼の宮殿」かも知れないって事だもん! こりゃぁ、出かけて行くしかなかったよ(^^♪ 今回の「纒向遺跡」の現地説明会の内容なんだけど、僕の駄文を読むより貰ってきた資料を見てもらうのが一番なので正しいことを知りたい人は下の書類を左から順にクリックして見てやってね。 説明文の中に出てくる図を同時に開いて見ながら読むと解りやすいよ。
上の5ページ目の図だけでも開いて見てもらったら、下の写真の意味が分かりやすいと思う。 ↓どの写真もクリックすると大きくなるよ。
一番下の柱から左上に伸びてる白い柱が柱列D、写真の左外で直角に曲がりSB-101の北側を東西方向に平行に囲み直角に北に折れ柱列Fに向かって調査地の外にまで続いてると思われる。 右上に見える3本の黄色い柱は今回の調査で発見されたもので、SB-101よりも大きい建物の柱跡のようで調査地の東外方向に伸びてるものと思われる。 この調査地から東へ50mぐらいのところをJR桜井線が走ってるんだけど、もっと東へ150mほどのところにあった南北に走る古代の道上ツ道まで、この建物と繋がる施設があっただろうと教育委の先生はおっしゃってた。
この写真のトリミング前の3072ピクセルのフルサイズの写真が欲しい人がいればおっしゃってくださいね(^^) (まだまだ後日に続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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