カテゴリ:社会科(地理・歴史)
京都に平安京が出来るまでは、遷都は天皇の趣味みたいなところがあってやたらと都を変えてたみたいなんだよね。
だけど都市機能までもった大きな都は、天武天皇(大海人)が作り始め持統天皇(讃良)が完成させた藤原京なんだ。 藤原京は大和三山までをその内側に飲み込む巨大都市で、その大きさは平城京や平安京よりも大きかったってんだからびっくりだよ! で、どうしてこんな事をいきなり書き出したかというとね、『天上の虹』の6巻のカバーの折返し部分に里中満智子さんが書いてた文章から思った事があるんだ。 そのカバーに書いてあった文章を転載するね↓ 天武天皇(大海人)が計画をたて、持統天皇(讃良)が完成させた都が『藤原京』です。 藤原京はその後の平城京と比べて知名度が低いので 少しさびしい気もしますが…。 藤原京の建材(かわら、木材など)は、 ほとんどが平城京へ運ばれてリサイクルされたので、 藤原京はあっという間に「ただの野原同然」というありさまになり、 建物がほとんど残りませんでした。モノがないと人々が注目してくれず、 知名度もあがらなかった……というわけです。 その時代に「リサイクル」なんていい考えですよね。 でも現実は、すでにそのころ「木材不足」が深刻だったとか…。 これを読んで、ちょっと藤原京をウィキで見たりしたら、最近耳にしたいろんな ”へぇ~…”が”さもありなん”へと変っちゃったんだ。 この間、ぽっけのびすけっとさんから「宗吉瓦窯」という聞いたこともない事が書いてあるサイトを教えてもらって見たんよね。 そのサイトはこちらをクリック→「宗吉瓦窯 3つの謎に迫る」 一口で言っちゃうと、藤原京建設には二百万枚もの瓦が必要で、なんと奈良から200キロも離れた四国の香川県の宗吉瓦窯でたくさんの瓦が焼かれて奈良の藤原京まで運ばれたって事なんだ。 まず二百万枚っていう、その意味の分からないほどの膨大な数にびっくりした! そんな二百万枚もの瓦がどうして必要であったのかが分からないし、いったいどこに行ってしまったのかも不思議に思った。 まず、その大量の瓦が必要だった訳は藤原京が平安京や平城京よりも巨大な街だったってことをウィキで読んで納得がいった。 だけど、その瓦がどこに行ってしまったのかも不思議でしょ。 建物は木造だから焼けたり腐ったりして1300年の間に消えたしまうかも知れないけど、瓦って焼けも腐りもしないもんね。 上の茶色の文字の里中さんの文章で ”そっかぁ!宗吉瓦窯とかで焼かれた二百万枚の瓦は平城京へ行ったんだ!”って合点が行った。 そう言えば去年”新薬師寺金堂跡”の発掘現場現地説明会に行ったときにも、解説の先生が新薬師寺金堂を全部解体して聖武天皇の難波宮建設のために持って行ってしまったって言ってらした。 そういやぁ、その先生は ”都が変わるたびに、建物をばらして柱や梁の木材を新しい都へ運んだ”って言ってらしたのを急に思い出したんだ。 その時は、確かに聞いてたのに興味がなかったせいかすっかり忘れてた。 そんなんで、明日香から平安にかけて趣味(実際にはそれぞれ深刻な事情があったみたいだけど…)のように繰り返された遷都のイメージが、突然リアリティを持ってきたんよ。 次から次に新しい都を建設したって事に対して、今まで僕は現実感がなかったんだけど、瓦や木材が不足してたからばらして運んで組み立てたって聞いたら、現実味が出てきたんだよね。 四国の香川県の宗吉瓦窯で焼かれた瓦も、あっちゃこっちゃの都を転々として、解体される事無く生き残った京都の平安京にまで行ったんじゃないだろうか? 僕の想像なんだけど、釘を使わない建築技術みたいな宮大工の高い技術力というのは、そういった遷都のたびに街そのものの建物をばらしては組み立てるってのを繰り返すうちに発達したんじゃないだろうか? しかもその技術がエコとかリサイクルなんて考え方の上に成り立ってるってのが素晴らしいじゃない!(^_-)-☆ で、さらに妄想すると資源の無駄遣いをしないで人間の労働力だけで遷都を行っていたとすると、最近言われてる ”エジプトのピラミッド建設は国民の雇用を満たす目的だった”っていう考え方と同じ事が日本の遷都にも言えるんじゃないか、なんて事も思った。 以上、かなり妄想まじりの記事なので、軽く流してちょうだい(^^ゞ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[社会科(地理・歴史)] カテゴリの最新記事
|
|