永井路子著『美貌の女帝』文春文庫
本を読んでる時っていろんな事を思ったり考えたりするよね。
だけど本に入り込んでたら、ちょっとメモをしとこうとかって思いつかないじゃない。
なんか、この『美貌の女帝』は、
”うそぉ!”とか
”そうだったんだ!”とか
”えっ?なんで?あとで調べてみよう”とか
ってのが、いっぱいあったんだけど、なんかほとんど忘れてしまったような気がする。
だから、今から本を繰り直して、気になった事を少しでも掘り起こしてみようと思う。
この本の主人公は元正天皇という人で奈良時代の女性の天皇なんだ。
名前は氷高皇女(ひだかのひめみこ)で、父親は草壁皇子、母親は阿閇皇女で、この阿閇皇女も即位して元明天皇になってる。
父親の草壁皇子の父親は天武天皇で、母親は持統天皇。
そんなんだから、この時代は女帝のほうが多いんだよね、
このことだけでも、昨今の天皇家の後継ぎ問題が不思議な気がするよね。
男の子が生まれないって皇太子妃を責めたりしないで女帝を認めたら良いのにね。
男女同権とか言ってるけど、1300年も前のほうがよっぽど男女同権だったのかも知れないよなぁ。
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↓(p)でページを示してる本は『美貌の女帝』文春文庫版第4刷より
(111p)に地名の表し方についての飛鳥浄御原令と大宝律令の違いに触れてる箇所がある。
「下毛野国足利郡……。この郡というのは?」
「こおりということです」
「いままではこおりは評と書いてましたね。それをなぜ郡の字を使うのです?」
つまり飛鳥浄御原令では「評」と書いていた地名の単位を、大宝律令で初めて「郡」の字を使ったってわけだ。
っちゅうことはね、今の住所表記の「郡」は大宝律令の出来た701年から使われるようになった訳なんよね。
で、(257p)に元明天皇(阿閇皇女)が葬られた場所のことが書いてある↓
”十三日大和の添上郡の椎山の陵に葬られた”
この元明天皇(阿閇皇女)の陵墓のあるのは今の地名では奈良市奈保町で奈良の町の真ん中から北へ2Kmほど離れたところなんだけど、この陵墓が出来た1300年前の地名は添上郡だったんだ。
で、この添上郡という地名なんだけど、2005年4月に消滅してるんだ。
平成の大合併って…(^_^;)って記事を去年書いたんだけど、その中に添上郡月ヶ瀬村が奈良市に吸収されて消滅したことを書いてる。
この添上郡というのは、もうすでにほとんど無くなっており月ヶ瀬村は最後の添上郡だったために1郡1村だったんよ。
だから月ヶ瀬村の消滅は同時に添上郡の消滅でもあるんだ。
っちゅう事はだねぇ、「添上郡」は大宝律令が出来た701年に、この字面のままに出来てた地名なのに2005年に消えてしまったって訳だよ。
1304年間の命だったわけだ。
なんかさぁ、平成の大合併ってのが必要なのかどうかは知らないけど、1300年以上も生き続けて来た地名が僕らの生きてる間に消えちゃうなんて、なんか嫌だなぁ…、って思ったんだ。
しかもさぁ、阿閇皇女が葬られた地名が消えたんだから、ちょっと悲しい…。
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(200p)に長屋王と吉備皇女の子供たちの名前が出てくる。
膳夫(かしわで)
葛木(かずらき)
鉤取(かぎとり)
この5人共が「長屋王の変」で藤原4兄弟に惨殺されてしまうんだよね。
ほかにも桑田って子も殺されてるらしい。
この事は里中満智子さんの『長屋王残照記』にも詳しく出てくるんだけど、何度読んでも読み方を覚えられなかったのが長男の「膳夫(かしわで)」なんよね。
膳夫を「かしわで」と読ますのに初めて出会ったし、これを言葉としても意味が分からないから覚えられないんだ。
で、ちょっと調べてみたら、こんな事が書いてあった↓
昔、天皇の食事を用意した専門の料理人を膳夫氏【かしわでうじ】と呼んだんだ。
この「膳【ぜん】」という字は、ほら、今でも 食事を乗せたお盆のことをお膳【ぜん】というだろう。
古くは、今のような食器の代わりにカシワ【柏】の木の葉を使っていたことから、膳夫を「かしわで」と呼んだと言われているんだよ。
この膳夫氏の一族がこの一帯【いったい】に住んでいたんだ。
まぁ、お膳から柏の木の葉を連想することで、次に出てきたときは「かしわで」とちゃんと読めるかもな…。
で、まぁ、それは分かったような分からないような話なんだけど、この上の文章は膳夫古池という奈良県橿原市の天香久山のすぐ北の池の説明文だったんよね。
で、その池を地図で見たら池のすぐ東側に御厨子(みずし)神社というのがある。
この御厨子神社のすぐ近くに「磐余(いわれ)の池跡」というのがあり、そこは大津皇子が自害させられたところなんだ。
なんかさぁ、僕にとって奈良時代の中でも心が痛む二大事件の「大津皇子事件」と「長屋王の変」が膳夫古池で繋がったような気がしてしまったよ…。
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(334p)に吉備真備(きびのまきび)についての記述がある↓
”少し以前唐から帰国してきた吉備真備と僧玄ボウを重く用いていた。”
この吉備真備という名前は去年、新薬師寺金堂跡の発掘現場の現地説明会に奈良教育大を訪れたときに、その大学のキャンパス内で見たんよ。
その時、僕は吉備真備を知らなかったんだけど、キャンパス内に吉備真備の古墳を示す石碑があったんだ。
知らない人物だしあんまり興味はなかったんだけど、写真に撮ってこの石碑のうしろにあった円墳の上にも上ってみた。
でも、おかしな名前だから、名前だけは覚えてたんだよね。
でね、この『美貌の女帝』を読む前に読んだ里中満智子さんの『女帝の手記1』に下道真備(しもつみちのまきび)という人物が出てきてたんだ。
『女帝の手記』の主人公「阿倍内親王」の教育係として下道真備と玄ボウが呼ばれるんよ。
このときに”下道真備が吉備真備かなぁ?”とは思ったんだけど、深くは考えないで読み飛ばしてたんだけど『美貌の女帝』で僧玄ボウと一緒に登場してくれたおかげで同一人物だと分かってすっきりしたよ。
調べてみたら、真備は阿倍内親王の教育係につくときには、まだ下道真備だったのが、その2年後に”吉備朝臣の姓を賜った”ということだった。
それと、この人は立身出世をした人として、とっても有名なんだそうだ。
”地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでなったのも、近世以前では、吉備真備と菅原道真のみである”
なんだってさ!
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(306p)に
”長屋王夫妻は、慌しく生駒山に葬られている。”
という記述があった。
生駒といえば大阪府と奈良県の境にある山なわけで、うちからも近いに違いないんだ。
で、調べてみたら、奈良県平群郡平群町だった!
このあいだ、纏向遺跡の現地説明会に行ったときの乗り換え駅の王寺駅から、近鉄生駒線で4駅行ったところだから巻向に比べたらずいぶんと近いよ!
だけどね、長屋王と吉備皇女のお墓は100mぐらい離れてるんだって。
天武天皇と持統天皇のように一つのお墓に入れて上げたら良かったのにね…(^_^;)
でも、まぁ、お参りに行くとなると100mぐらい離れてて2か所にあるほうが歩くのが楽しくて良いなぁ、なんて思ってるんだけどね(^^ゞ
なんか、まだまだ忘れてる気がするんだけど、とりあえず、これだけ自分への覚書として書けて良かった(^_-)-☆