カテゴリ:社会科(地理・歴史)
「宇治橋」から「近江京(おうみのみやこ)」から続く。
この記事を書こうと思ったけど、分からない事がいろいろあって手間取ってしまったんだ。 まず「近江大津宮錦織遺跡」の読み方が分からなかったんだ。 (出典「月刊文化財」〔文化庁文化財保護部監修〕)となってるサイト↓ (https://www.mlit.go.jp/singikai/infra/city_history/historic_climate/5/images/shiryou5-4.pdf#search='近江大津宮錦織遺跡') には「おうみおおつのみやにしごりいせき」となってるので混乱しちゃったんだ。 ↓写真はどれもクリックすると大きくなるよ。
いわば表札にルビをうってるようなもんだから、これを信じたらよさそうなもんだけど、〔文化庁文化財保護部監修〕なんて文書に「にしごりいせき」だなんて書いてあるんだもん疑問に思うよなぁ(>_<) でね、古代においてはどう読んだのかは知らないけど、今現在「大津市錦織」に存在する遺跡だから「錦織遺跡」と命名されたのであろうから、この場所の地名を現在どう読むのかを調べれば良いんだよね。 で、郵便番号表を調べてみた。 郵便番号表の「大津市錦織」のページはこちら ここには「錦織(ニシコオリ)」と書いてある。 そんな訳だから、いろんな所にいろんな読み方が書いてあるようだけど「錦織遺跡」は「にしこおりいせき」と読めば良いと思う。 それと「大津宮」ってのも気になったんだ。 「大津」なんて日本書紀には書いてないから、僕は前回の記事に「近江京」と書いたんだよね。 日本書紀によると 巻二十七・天智天皇・近江遷都と天智天皇の即位 三月十九日、都を近江に移した。 巻二十七・天智天皇・天智天皇崩御 十二月三日、天皇は近江宮で崩御された。 巻二十八・天武天皇・近江朝廷の対決 いっぽう近江の朝廷では、大皇弟(大海人皇子)が東国に赴かれたことを聞いて、群臣はことごとく恐れをなし、京の内は騒がしかった。 なんて風に書いてあって「大津」の字はみえないんよ。 天皇の住んでる御殿は「近江宮」で、天皇の住んでる都市は「近江京」で、その政治組織は「近江朝廷」ってことなんだ。 で、「大津京」ってなんだろうと思って調べてみたら、明治の歴史学者・喜田貞吉って人が文献資料にはまったく見えない「大津京」という言葉を使い、それが広まってしまい研究に混乱をきたしてるってことだった。 なんと最寄のJRの駅名まで「大津京」になってしまってた。 そんなんで、僕は「大津京」や「大津宮」って言葉は使わないことにしようと思うけど「史跡 近江大津宮錦織遺跡」に関しては、もうこの場所を表す固有名詞になってしまってるからしかたがないよな。 前置き話が長くなってしまってごめんなさい(^_^;) 「史跡 近江大津宮錦織遺跡」は第1地点から第9地点まであるらしい。 下の図は第4地点にあった説明ボードを写真に撮って、図の中に赤矢印と黒矢印の書き込みをした。
ピンクの矢印をたどると 第4地点→第8地点→第1地点→第2地点→第7地点→第9地点→第3地点の順番にまわれる。 だけど左上の第5地点と第6地点は発見できなかった。
駐車場のある「大津京シンボル緑地」と遺跡の場所を標した地図を作ったので載せておくね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年05月24日 22時48分51秒
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