カテゴリ:社会科(地理・歴史)
大阪から神戸に向かって阪神高速湾岸線を降りて真っすぐ六甲山に登ろうとすると、海側から国道43号線を山側に交差してすぐの交差点名が「処女塚」というんよ。
で、この処女塚交差点の南東角がこんもりとした丘になってるんだ。 この処女塚交差点の信号は、よく引っかかって、止まるたびに信号機の横の「処女塚」の字を見て「処女塚」ってなんだろう?って思ってたんだ。 交差点の南東角の、こんもりとした丘が古墳のようだし、家に帰ったら調べようと今までに何十回となく思ってたんだけど、こういうのって家に帰ると忘れてしまって絶対に調べないんよね(^_^;) ところが、今読んでる角川文庫夏の100冊の『万葉集』に、この「処女塚」が出てきたんだ! 歌番号一八0九の高橋虫麻呂の長歌とその反歌二首に、この「処女塚」の由来が語られてるんだ。 「葦屋(あしのや)の兎原娘子(ウナイオトメ)の八年子(やとせこ)の~」で始まる長い長歌に、「兎原娘子伝説」の物語が語られてる。 あまりに長いので、原文は→こちらをクリックしてやって。 現代語訳は→ここをクリック。 里中満智子さんや永井路子さんの本で、万葉集って短歌ってイメージしかなかったんだけど、こんな長歌の物語もあったんだよね! で、万葉集に書かれてる「兎原娘子伝説」を簡単に言うとね、兎原娘子(うないおとめ)にプロポーズした二人の男性が居るんよね。 茅渟壮士(ちぬおとこ)と兎原壮士(うないおとこ)の二人なんだけど、困った兎原娘子が自殺をしてしまい、茅渟壮士と兎原壮士もあとを負って自殺してしまうという悲劇なんだ。 親族は、この悲劇を語り継ぐために兎原娘子の墓を真ん中に、茅渟壮士と兎原壮士の墓を、その両側に作ったんだってさ。 この伝説をもとに、後代、『大和物語』(147段)、謡曲「求塚」、森鴎外の戯曲「生田川」が書かれてるそうだから、いつものことだけど、この事も僕が知らなかっただけで、結構有名な話だったみたいだ(^_^;) 「処女塚」が、この兎原娘子の墓で、「処女塚(おとめづか)古墳」なのだそうだ。 そして処女塚古墳の西1Kmのところに兎原壮士の墓である「西求女塚(にしもとめづか)古墳」があり、 東1Kmのところに茅渟壮士の墓である「東求女塚(ひがしもとめづか)古墳」があるのだそうだ。 ◎「処女塚古墳(おとめづかこふん)」
阪神大震災のときに、高架の高速道路が横倒しになってる映像を見た事の無い人はいないだろうけど、あれは、このあたりなんだ。 ◎「西求女塚古墳(にしもとめづかこふん)」
何枚なのかはっきりさせてよ! 今どこに保管、あるいは展示されてるのか、はっきり書いておいてよ~!(>_<) ◎「東求女塚古墳(ひがしもとめづかこふん)」
こんな所に行ってもどうってことはないんだけれど、万葉集の時代に詠われた物が、今も残ってるって凄いじゃない! 万葉集の成立する8世紀に、すでに昔の伝説になってる物語を示すお墓が今もちゃんとあるんだもんね! しかも考古学的検証でも時代が4世紀だってのも、なんか本物っぽいもんね。 卑弥呼の時代の100年ほど後で、仁徳天皇とかの巨大古墳時代の100年ほど前なんよね。 万葉集の一番古い方の歌が雄略天皇や仁徳天皇の奥さんの磐姫皇后の歌なんよね。 兎原娘子の生きた時代は、それよりも少し前ってのが伝説っぽいもんなぁ。 処女塚古墳は一級の遺跡だってのは想像がついてたけど、行ってみて西求女塚古墳も東求女塚古墳も三角縁神獣鏡が何枚も出てたり凄い遺跡だってのにびっくりしたな。 なのに場所を探すのに苦労した。 ネット上で紹介してる人たちって何故か場所を示してくれないんだよね。 凄く立派な紹介文や写真が多数載ってたりするのに、場所を教えてくれないんだ。 「東求女塚古墳」なんか、災害時の避難場所のホムペでやっとこさ「東求女塚公園」というキーワードを見つけたんよ。 「西求女塚古墳」も質問に答える形で、やっと場所を明かしてられた。 なんか知ってる人って秘密にしたいのかな?なんて思ってしまうよ(^^ゞ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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