カテゴリ:社会科(地理・歴史)
堺市南区と和泉市にまたがって、光明池という大きなため池がある。
このため池の名称「光明池」は、1700年前の皇后「光明皇后」の出身地だという言い伝えから付けられたのだそうだ。 その事は以前にも書いて、光明池の写真も何枚か載せた。 面倒でなかったら、また見てやって→ここ でね、光明池の近くで時間ができたので光明皇后の出身地だという事が分かる遺跡か何かがあるかも知れないと思って光明池のまわりを歩いてきたんだ。 ところが軽い気持ちで歩きだしたんだけど、光明池って、でかいったらありゃしなくて、大橋を渡って和泉市側をぐるっと回るだけで2時間近くかかってしまったよ(^^ゞ 行ったり来たりしたし、工事中で住宅地を迂回しなければいけないところもあったりしたからなんだけどね(>_<) だけど、光明皇后の名前を見つけることが出来たのは、「光明池改修の碑」というのがあって、そこに「光明皇后の伝説」の事に触れてあっただけだったよ↓ この場所はとんでもなく高い堤の上で風が吹き抜けて超寒かった!(>_<) ここから見た池側の景色↓ ここから見た池と反対側の景色↓ ここにあった「雨乞蛙」!これ、でかいんよ!(^。^)↓ ここには神社もこしらえてあった↓ 景色が良いしオモロイ物もあるし暖かい日だったら良かったんだけど、風の強い日の冬山の尾根筋に居るような感じで、とっとと歩いたんだけど、この吹きっさらしの尾根筋が長くて遭難するかと思ったよ(^^ゞ そのオモロイ場所の地図を載せておくね↓ で、結局、光明池には光明皇后ゆかりの物を見つける事が出来なかったので、そこから直線距離で6キロほど離れたところにある光明皇后のお墓に参ってきた。 ちゃんと光明皇后と掘ってあった。 なのに、ここ、とても簡素なもので、車が通る道から20mぐらいのところにあるのに、おもて通りからは、その存在すら分からないような感じなんだ。 かりにも皇后なのに、この扱いはどうなんだろう? やっぱ、光明皇后が天皇家の人間では無くて藤原氏の人間だからなんだろうか? 父親は藤原不比等、母親は橘三千代で、あんまり人気のある人たちやないからやろか? だけど、光明皇后は病院や生活に困った人たちの施設なんかを私財を使って造った人なんよね。 そんな物はまだこの国になかった時代にだよ! この、前の道を通る人にも気がつかない簡素なお墓って、なんなん? 一応「史跡光明塚古墳」という事になってた↓ この史跡の指標も表の道からは見えないようになってる。 実は、この「史跡光明塚古墳」のすぐ目と鼻の先に「諸兄塚古墳」というのがある。 この「諸兄塚古墳」というのは橘諸兄という人のお墓で、以前、オバQの形をした古墳だってブログに書いたんだ→こちら 橘諸兄も光明皇后も母親は橘三千代なので、この2人は異父兄妹なんよね。 橘諸兄という人も聖武天皇の時代に朝廷の最高実力者に上り詰めた人なのに、その橘諸兄のお墓の「諸兄塚古墳」も荒れ放題だし、どういうこっちゃ!って思うよ(^_^;) やっぱ橘三千代って人の人気がない事が関係あるのかな? 諸兄塚の記事に乗せた「オバQ諸兄塚古墳」の地図に「光明塚古墳」の場所をマーキングしておいたよ↓ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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