カテゴリ:社会科(地理・歴史)
「物部守屋敗北と捕鳥部万」ったって、なんじゃ、それ?
って感じでしょ。 しやけど、これ、日本書紀に書いてある蘇我馬子が物部守屋を殺し物部氏が滅亡したという、あの有名な出来事を書いてある項の「小題」なんだ。 だから、僕の持ってる日本書紀の、その項の部分には付箋も付いてるし、何度か読んでる部分だと思うけど捕鳥部万(ととりべのよろず)だなんて人の事を、僕は三日前まで全く知らなかったんだ。 でね、3日前に、捕鳥部万の事をどうして知ったかというとね、地図の上で岸和田市に「大山大塚古墳」というのを見かけてね、 ”なんじゃ、これ!?大山大塚古墳って、そのままやん!” なんて思たし、これ、大した史跡でもないやろうとは思いつつもググってみたら、なんとまぁ、この「大山大塚古墳」が捕鳥部万のお墓で、日本書紀に記載があるって事だったんだ。 でぇ、僕の持ってる講談社学術文庫の日本書紀の中を探してみた。 巻二十一 崇峻天皇(すしゅんてんのう) 泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと) 「物部守屋敗北と捕鳥部万」 この項に物部氏の滅亡の事を書いてあるけど、その小題名が 「物部守屋敗北と捕鳥部万」だなんて、 ”へぇ~~~!” って、しばし驚いてしまった! で、内容を要約すると、捕鳥部万は物部守屋の家来で、守屋が殺されたあとに逃げたけど、追い詰められ、最後は自害したんだって。 でね、話はそれだけではなくて、史実としてはどうでも良いようなその後の忠犬物語が書いてあるんだ。 捕鳥部万の事を朝廷は酷く怒り、捕鳥部万の身体を「八つ切りにして八つの国に串刺しにしてさらせ」と命じたんよね。 で、捕鳥部万を八つに切り串刺しにしようとしてる時に、万の飼っていた白犬が、万の首をくわえて逃げて古いお墓に収め、その上に横になって飢え死にするまで万の首を守ったんだって! 朝廷はその話を聞き感動して、捕鳥部万のお墓と白犬のお墓を作らさせたのだそうだ。 なんかさぁ、日本書紀にこの話要る…? って思うけど、なんかインパクトある良い話やし、やっぱ7世紀の日本書紀の編者さんも載せたかったんやろね。 この捕鳥部万は6世紀の人やから、日本書紀が書かれるまでまだ100年ぐらいしかたってない勘定になるし、きっと事実やろうし当時としては超有名な話やったんやろな。 でぇ、こんな日本書紀に書いてあるビッグエピソードの忠犬物語の現場が近い所にあるなんて、行ってみたいやん! で、いつか行こう、とか思うてたら、いつまでも行かれへんから、すぐに行って来た。 ↑こんな感じで急階段の上で、木が茂ってて、上手に撮れなかった。 左端に写ってる大きな石板に謂れが書いてあるようだったけど、朽ちてしまってて読めなかった。 ↑がたがたの階段に無理やり三脚をたてて写してみた。 ↑離れて古墳を望めるポイントが見つけられなくて、こんなんだけど、この森が古墳みたいだった。 でぇ、忠犬の白犬さんのお墓のほうなんだけど、場所が分からなくて通りがかりの地元のおばぁちゃんに訊いたりしたけど分からなくて、近くのこじんまりした竹藪の生い茂った森に入って、一番高い所に登ってみたら、忠犬さんのお墓があった(^^♪ 見つけた時は嬉しかったぁ♪ 実は家から2時間半ほどかけて歩いて行ったわけで、諦めきれなかったからなぁ(^^ゞ 僕には捕鳥部万のお墓よりも白犬さんのお墓のほうが立派に見えた(^^) なんか白犬といえば白戸家のお父さんをイメージしてしゃぁない。 ロケットに乗って宇宙に行く姿を今日も10回ほど見たもんな(^^♪ でね、その二つのお墓の近くに神社があってね、 「御鎮座千五百年大祭」だなんて書いてあった。 御鎮座千五百年って、式内神社で1000年だから、延喜式の成立より、さらに500年前ってすごいやん! だったら式内社であるのは間違いないやろうし、捕鳥部万がこの地に葬られたのが6世紀で、まさしく1500年前で話しが合ってるし、なんか嬉しくなってしまった。 そこは、矢代寸(やしろぎ)神社という神社やった↓ 流造りのかっこいい御本殿↓ 由緒碑↓ ちなみに矢代寸神社の裏から捕鳥部万のお墓と白犬さんのお墓を望む事ができた↓ 地図を載せとくね↓ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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