テーマ:美術館・博物館(1541)
カテゴリ:社会科(地理・歴史)
美具久留御魂神社から近つ飛鳥博物館へ向かった。
元々外環を右折したかったのに左折して美具久留御魂神社に来たわけだから、外環を直交して二上山に向かってずんずん行ったら良いわけで行きやすい。 でね、二上山の方に走ってると鳥居があって、この道が全部美具久留御魂神社の参道だってのが分かった。 で、何度か曲がり山間の道を入って行くと、 「なんじゃ、こりゃ!」って建物が山際に出現した↓ ↑この写真は、帰る前に、なんとか全体の雰囲気が分かる写真を撮ろうと頑張って写した一枚。 もう時刻は4時を回ってたんで、とにかく入口前に車を付けて、受付に早く行きたかったんやけど、何やら秘密基地みたいでどこが入口なのかが分からない。 車で駐車場へ入っていくときに、どこかに安藤忠雄さんの名前を見たような気がして安藤忠雄さんの名前を口にしたんやけど、どこで見たのかは覚えてない。 僕は安藤忠雄さんに興味がないけど、姉貴は安藤忠雄ファンなものだから、 「これ、安藤忠雄や!」って、建物を見てすぐに思ったみたいや。 車を停めたときには、なんせこんな姿しか見えてないんやから、コンクリートの打ちっぱなしの異形の建物としか分からへんし!↓ しやけど、僕みたいに風情のない人間からしたら、ただ単にコンクリートの打ちっぱなしのけったいな建物を見たら、安藤忠雄さんでもおかしくない、としか思われへんけどね(^^; 安藤ファンの姉貴は興奮してたなぁ(笑) とにかく、ここの建物、文字がないねん。 帰る前に一か所だけ文字を見つけたので写真を撮った↓ 大阪府立近つ飛鳥博物館と書いてあるけど、これは見逃すわ。 この大阪府立近つ飛鳥博物館と書いてあるのんは、一番上に載せた写真に写ってる意味不明の壁の一番手前やねんもん、駐車場に入ってしまったら、ここの施設名を見ることもでけへんようになってまう。 入口は建物の真裏の山側にあって表から全く見えない。 しかも、何にも書いてない↓ 上から見たら前方後円墳に見えるらしいんやけど、お客さん、上から来るわけちゃうやん! しやけど毎日生活する空間やないんやし、探検気分で訪れるんも悪くはないよね(^^ゞ ただ我々は4時過ぎに行ったわけで、閉館時間も知らんくて慌ててたもんやから、ちょっとイラッとしたわ(笑) でね、どうしてこんな山の中に、近つ飛鳥博物館が建ってるかってことなんやけど、このチラシを見て↓ この「近つ飛鳥博物館」が建ってる場所はね、「近つ飛鳥風土記の丘」って「一須賀古墳群」を保存してある広大なエリアの端に位置してるんよね。 そして、このエリアで発掘された物も「近つ飛鳥博物館」に展示されてたりしてるんよ。 そういった発掘物だけじゃなくて、古墳時代から聖徳太子の時代を中心に、いろいろ、あの時代を解説してくれてる。 しやから聖徳太子が建てた日本最古の寺である四天王寺の模型なんかも展示されてたりしてる。 というのが、ここのすぐ北には聖徳太子のお墓があるんよ。 聖徳太子のお墓は太陽の道の上だし、ここも太陽の道に近い。 だいたい、ここの地名の南河内郡太子町というのは聖徳太子の「太子」からきてるんやからね。 これは近つ飛鳥博物館(青○)の北側の地図だけど、飛鳥時代の天皇や要人のお墓(赤○)がいっぱいある↓ ↑ここは、古代エジプトで言うたら王家の谷みたいなとこやったんかもしれへんね。 ついでやから、上の地図に竹内街道(たけのうちかいどう)も紫のラインで入れてみた。 竹内街道は古道の中の古道で王様みたいな古道やねんで! 飛鳥時代には国道一号線みたいなもんやったやろうね。 飛鳥から朝鮮半島や中国に行くには、竹内街道を大阪湾に出て海路を瀬戸内海経由で向かったんやからね。 上の地図にお墓が載ってる小野妹子が聖徳太子の国書を携えて中国に行ったときも竹内街道を通って行ったわけやんもんな。 「近つ飛鳥博物館」の住所は南河内郡河南町になってるんやけど、ここって太子町とちゃうのん?って思ってんね。 そんな風に思ってはる人もいてると思うので、最後にそのへんの事情が分かる地図を載せておくね↓ ↑地図の赤線の内側の薄ピンクの部分が「太子町」それ以外が「河南町」。 だから、車で来ると、ずーっと太子町で、駐車場も太子町で建物だけが河南町になってるみたいやね(^^; お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年04月07日 21時44分10秒
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