テーマ:好きなクラシック(2327)
カテゴリ:音楽紀行
中学校の音楽史では、バッハの3つの時代・・・ワイマール、ケーテン、ライプツィヒについて習い、またテストにも出る。単純に町の知名度として考えるとケーテンというのは、ワイマールやライプツィヒに比べて影が薄い気がする。
だが、バッハに関してはこのケーテンは重要な場所である。ピアノ関係者にとっては尚更そうである。なにしろ、平均率クラヴィーア曲集、無伴奏ヴァイオリンソナタ、チェロ組曲そのほか多くの代表的な器楽曲や世俗曲(宗教曲以外の曲)がこの時代に作曲されているからだ。 ケーテン(Köthen)はブラウンシュヴァイクから電車で約1時間、マクデブルクとハレの間にある町である。今日は1日かけてケーテンとハレを見てまわった。ハレはヘンデルの故郷であるが、それについてはまた後日。 (右上写真:バッハが宮廷楽長として働いていた城) バッハがケーテンに来たのは1717年、レオポルト侯爵によって宮廷楽長として招かれたことによる。 当時プロイセン宮廷で軍人精神に凝り固まったフリードリヒ1世が「音楽のようなちゃらちゃらしたもんはけしからん」と、楽団を解散させてしまった。レオポルトはその楽員たちを自分の宮廷に呼び寄せてレベルの高い楽団を作った。バッハはその楽団の長となったわけである。 バッハにしてみれば、優秀な演奏技術を手に入れたことになる。これは作曲家として幸運なことであろう。先ほど代表的器楽曲がこの時期に作曲されたと述べたが、ここに理由の一つがある。 平均率クラヴィーア曲集や無伴奏チェロ組曲などはある意味実験的側面もあり、作曲したものを即演奏させることができる環境は創作する上で非常に助けになったのではないかと思う。 ケーテン時代の特徴は器楽曲の多さと対照的に宗教曲が少ないことである。 これはケーテン、またレオポルトの宗教がカルヴァン派だったことが影響している。町の中心にある大きな教会がヤコビ教会(写真)で、カルヴァン派に属し、宮廷もこの教会との関連が深かった。 当時、カルヴァン派は音楽に対して否定的な見解を持っていた。おそらく使徒時代の教会を見習おうとしたためであろう。礼拝賛美はごく簡素な合唱が中心であった。それでこの教会ではバッハの出る幕がなかったのである。 もっともルター派であったバッハは別のルター派教会(後述)に通っていたが、この町でルター派はマイノリティーで財政的にバッハを楽士として雇う余裕はなかったであろう。 このヤコビ教会は町で一番高くそびえ立つ建物だ。とりあえず入ってみた。中には暇そうな・・・いやいや、親切なおばちゃんが一人座っていた。僕が入るや否や、「旅行者さん?じゃあいろいろ説明するわね」などと頼みもしないのにガイドをはじめた。 要約すると、この建物は11世紀ごろ建てられ後に増築しゴシック化された。ザクセン地方ではよくある話である。 またこの地下墓地には先述のレオポルトが眠っているとのこと。またここでフランツ・リストがオルガンを演奏したことなども話してくれた。 おばちゃんは塔に登ることを奨めてくれた。特別に料金は要らないが、そのかわり少しばかり寄付してくれとのこと。おばちゃんは入口まで案内し、そこで「いってらっしゃい」というようなことを言って引っ込んだ。考えたら毎回観光客に付き合って登ってたら体力が持たない。 塔は結構高かった。ちなみにこの時お昼過ぎでまだ昼食食べてない状態である。考えたらエレベーターなしでこんな高いところを登るのは何年ぶりだろう。上についた頃にはかなり肩で息をしていたが、よく晴れていたことも合って見晴らしが良かった。上の写真は城方面を撮ったもの。目の前に見える大きな建物がネオ・ルネッサンス様式の市役所で、オレンジ色の屋根で真ん中の一番上に見えるのが城である。 塔を降り切った時は膝がわらっていた・・・。 経過時間 1月 4日 7時間 53分経過 吸った煙草 0本 吸わなかった煙草 353本 浮いた煙草代 70ユーロ 延びた寿命 1日 5時間 25分 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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