テーマ:好きなクラシック(2327)
カテゴリ:音楽紀行
ヤコビ教会の尖塔から降りてきた時は1時をまわっていた。普段運動不足のため足がガクガクいうのが気になったが、とりあえず教会前の市場でクリーヴルスト(ケチャップとカレー粉をまぶしたソーセージ、たこ焼き感覚で食べる)をほおばって城館へ向かった。城内のバッハ博物館は1時に開く。
受付は1階だったが展示場は日本で言う2階にあった。各階に係員がいて互いにトランシーバーで連絡を取り合っている。僕が階段を上がろうとすると受付のおじさんが「今から客があがってくぞ~」とトランシーバーで報告した。なんだかその光景がのどかで面白い。 上の階にあがると、ここでスリッパを履くよう促された。ここでは床も大事な保存物である。僕が靴を脱いでスリッパを履くとここのおじさんに大笑いされた。靴をはいたままスリッパを履くのだそうだ。どうりでサイズが大きすぎるはずだ。 展示は宮廷楽団で使われていたと思われる楽器類、バッハ・ケーテン時代の解説、自筆楽譜(ファクシミリ)などがあった。この写真のチェンバロはバッハが宮廷のために選定したものと同型らしい。 ちょっと暗かったので係員に「フラッシュ焚いていいですか」と聞くと、「別にいいんじゃないの」という回答。ちなみにここで写真を撮るには2,5ユーロの許可証が必要。 バッハのケーテンでの生活面についてふれていきたい。 ケーテンでバッハがどこに住んでいたかということについては確かなことはわからないが、初めの頃は聖アグヌス教会の牧師館(写真右)に住んでいただろうと推測されている。 ケーテンは当時カルヴァン派の影響下にあった。しかしバッハはルター派の信条を保ち続けていたので、カルヴァン派に妥協できなかった。そこでこの町で唯一ルター派の教会であった聖アグヌス教会に教会籍を置いていた。 カルヴァン派とはカルヴァンの流れを汲むプロテスタントの一派で、「予定説」に代表されるカルヴァン主義神学、また「長老制」という独特な教会運営方法が特徴である。現在の改革派・長老派の源流にあたる。 レオポルト侯爵の母親はルター派で、彼女によって建てられたのがこの聖アグヌス教会(写真右)であった。しかし彼女の死後はこの教会や学校などの付属施設への援助が手薄になってきた。 そのことはルター派学校に子供を入れていたバッハにとって不安材料となったに違いない。バッハはケーテンでの生活は気に入っていたようだが、一方他の場所へ移ることも考えていた。それはこのような点が原因していたかもしれない。 ケーテン時代の後期はホルツプラッツに面したあたりに住んでいたようである。各家の説明書き(ケーテンでは歴史的建物にはとても見やすい説明書きが掛けられている)を見たが、どれもバッハが住んでいただろうという言及はなかった。 目を引くのは写真正面に見える木組みの家で1598年に建てられたもの。ルネッサンス前期のものらしい。現在自家製ビールの店となっている。また向かいには「バッハ・アポテーケ」という薬局があった。もちろんバッハさんという人が経営しているのではなくバッハにちなんで命名されたものである。 聖ヤコビ教会からゆるい坂道を降りてきたところにバッハプラッツという広場がある。この広場の中心には噴水があり、その背後にバッハの石像がある。特にこの場所とバッハの居住と関係があるわけではなさそうである。この石像の背後に回ると高くそびえ立つ聖ヤコビ教会の尖塔をバッハが眺めているように見えるのが面白い。 経過時間 1月 7日 7時間 16分経過(8月21日現在) 吸った煙草 0本 吸わなかった煙草 383本 浮いた煙草代 76円 延びた寿命 1日 7時間 55分 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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