こちらには、「淡路OHPの会の人の私語が講座を妨げている」とのたもうたかたがいらっしゃる。で、午後8時までといった休憩時間を2分過ぎたところで、私は、「8時回りましたけど」と言ってやった。聴力障害者のかたと、必死で手話でのやりとりをしていて、一向に時間を気にしていらっしゃらない様子だったので。2分、ほんの2分のことだけど、手話のやり取りの間は、こちらは二人が何のことについて話していらっしゃるのかさっぱりわからない。喋れるのだから、せめてその人だけは言葉を発して欲しかった。大体、手話が得意な人はこんな場合が多いのじゃないかな。そりゃ、手話が出来るでしょうよ。でも、他の人はその手話を学びに来てるのよ。得意気に、二人にだけわかる会話なんかせんといてよ。まぁ、その二人の会話がわかるくらいなら、講座なんて受けませんて。と、敢えて私は、淡路OHPの会専用の名札を着けて参加しましたわよ。
聾唖をかかえた人は、手話がわかる人とのみ会話ができる?どうして、筆談という方法を使わないのか、それが不思議でたまらない。文字を読むということがそれほど苦痛なのかなぁ。書いた文字が読めるなら、筆談の方が遥かに万人向きだと思う。手話が分かる人としか会話ができない。なので、私たちが手話を学ばなきゃいけないの?文字が読めるなら、会話が成立するじゃない。と、ふとそんな風に考えてしまう私。
要約筆記通訳の場合、書いた文字を使っての情報保障。手話通訳の場合、手話のみでしか会話が成立しない?と、カテゴリーは同じ聴力に障害を持った人への支援ということで、要約筆記通訳に含ませていただきます。