昨年3月11日に東北地方を襲った大地震。その復興支援ネットワーク淡路島の活動報告を聴く機会があり、支援についての心配りの大切さのようなことを学ぶことができた。
救援物資について、その中身のこと、入れる段ボール箱の大きさのこと、重さのことなど。重さについては、勿論一人で持ち運びが可能であること。段ボール箱も、大きさが揃っていれば簡単にパレットに積み重ねることができる。フォークリフトを使っての移動にはもってこいのパレット。ところが、段ボールの大きさがまちまちだと、この積み重ねるという作業がなかなかはかどらない。
中身についても、汚れたままの服などが結構あったらしい。救援物資として運ばれた荷物を整理などを兼ねて、一旦淡路島へ運び、使える状態の物をバザーで売り、お金に換えてもう一度被災地へ。という取り組みを行ったとき、運んだ救援物資の3割程しか使えるものが無かったとのこと。この数字には実は驚いた。汚れたまま、或いは、箪笥に放り込んだままにしておいて、カビがういたのをそのまま救援物資として送った人が居た。ということなのだ。どこかで、廃品回収同様に考えた人が居たかも知れない。
実際、自分が頂いて着る立場だったらどうだろう。カビたような物を有難く着るだろうか。でも、被災地の人たちは、そんなものでも送ってくださったことに対して、「ありがとう」としか言えないのだ。“使っていない新品同様の物”というくくりだと、例えカビたものでも良いと勘違いする人がいらっしゃるのかなぁ。でも、欠けた茶碗や、汚れが残ったままの器ってのは、一体どういうわけでこういうことになってしまったんだろう。仕分けしながら、悔しくて涙が出てきたとのこと。
確か、どこかの国の災害のときに、日本から送られてきた毛布とかがとても汚れていて、結局日本へ送り返した。みたいなことだったような気がする。大慌てで送ったから確かめる時間が無かった。とかそういう類のものではないようだ。要らないなら捨てて。みたいな物を送るのもどうかしていると思う。段ボール一つでも、被災地ではゴミになってしまうのだから。でも、全国の被災地には、こうした、使うに使えない状態の救援物資がまだ山のように積まれているのじゃないかなぁ。わけがわからないうちに山積みにされて、いよいよ何が何だかわからなくなってしまう。。。ならば、最初から、この箱には何が入っているのか。ぐらいは明らかにした上で送らなければ、結局はゴミのようになってしまうということ。親切が仇になってしまう。支援する側も、“してやっている”ではなく“させていただいている”という気構えが必要だと思う。さらっぴんじゃないなら、せめて洗濯した上で。というのは常識な気がする。
果たして何が必要なのか。ということはその人、その人によって変わってくると思う。ならば、必要な物を必要なだけどうぞ。みたいな形の救援物資センターがあれば良いのかなぁ。
震災から1年半を経過して、支援が必要なのは段々と物から心のケア的なことへ変わっていっていると思う。