写真
小説「旅立ち」序章・・・妹の写真 ここに2枚の同じ被写体の妹の写真がある。いずれも古く、セピア色に退色している。一枚は父の背嚢(リュック)から発見されたもの、一枚は黒い台紙の昔からの写真帳に貼られているものである。この写真帳に貼られている妹の写真は、揉みくしゃになったものを丁寧に伸ばして貼ってある。さらに、よく見ると眼や耳や鼻や口、それに手のひら、そのほかのところは無造作に針のような(あるいは錐か)もので、突き刺されている。 これからの記述は、私が眼にしたものや、私が初老をむかえたころ父から聞かされたものや、多感だった少年期の私に母が語っていたものである。 私は,大東亜共栄圏のひとつである台湾で出生した。出生したとき父は軍務に就いており、母は父の留守を護って理髪の仕事をしていた。どう記憶をたどっても3歳以前には戻れない。それ以前の私は父と母に所有された記憶のなかで生きていた。父は「兵隊さんのおじさん」であったという。父は前述のとおり、私が生まれる以前から軍務に就き、戦地へ出向いたりしていて、家には居ることはなかったが、帰還することもあったらしい。たまに帰還する父は、私から母を奪った。隣の寝室でひとり父母が微かな声で会話するのを聞き、闇の恐怖に怯えながらいつしか寝入っていた。きっとその頃、父母は「生と死」の意味を最も深いところで確認し合って、与えられた僅かばかりの時を美しく激しく睦び合い、そして父は、義務化された死地へ赴き、母はまた,生への営みをもくもくと続けたのであろう。しばらくして、妹が生まれた.幼いながら妹の可愛らしさに感激し、はしゃぎ回っていたことを覚えている。その頃から母は、「お兄ちゃんなんだから・・・・」「男の子なんだから・・・・」「立派な兵隊さんになって、母ちゃんの命、護らんといけないんだから・・・・」と私にあらゆる我慢を強い、強い男となることをい願い、国防の兵士となることへの義務を語った。そして母は、妹のものとなった。 三歳下の妹に添い寝する母は、乳の匂いで香しく、いつも綺麗に、後ろに髪を丸めてきちっと束ね、片腕で妹に乳を含ませていた。こうしながら、楽しい昔話や御伽噺を聞かせてくれ、私は、これを聞きながら夢の世界へと誘われていた。 戦争も終わり、私も、はや中学生となった。僅かばかりの割当農地でほそぼそと日々の暮らしを立てていた。こんな時代の、記憶に残る原風景のひとつに、父母が野良仕事から帰ってくるころ、陽もすっかりと暮れてしまい、月が庭の木々の葉のひとつひとつをくっきりと区切るほど、明るい艶やかな夜がある。そこには、穏やかな顔の父母がいつもいるのだ。この風景は、いまもって私の通奏低音となっている。母はこんな季節に二人目の妹を出産して逝ってしまった.逝ったとき母はまだ三十台の後半であった。戦争による無益な死を引き受けることからようやく解放された時であった。母は骸骨のように鄙びきった身体を死の床に横たえていた。戦争による死が「無益な死の享受」とするならば、今の母の死は、有益と規定していいのか中学に上がったばかりの私は迷った。母の死を父がどのように受け止めていたのかは、今でも深くは分からない。父は母の死後、再婚をせずに九四歳の天寿を全うした。 父は母の死後、良く写真帳を引っ張りだして眺めていた。そして、母が逝ってから間もなくして、二枚の写真を指差して、「これを覚えているか」と父は聞いた。それはすぐ下の妹の2,3歳ころの査真であった。二枚とも同じ写真で一枚は父が出征中肌身離さず持っていたもので、もう一枚は母が大切に保管していたものであちらこちらに針で突き刺した後がくっきりと残っていた。父は語った。「これは、おまえがまだ三歳だったころ、父ちゃんの出征中にY子が生まれ、母ちゃんをとられた腹いせに、おまえがやったんだそうだ。かなしいねえ、ひとを羨むことは。とおちゃんがおうちに居れば、うんとおまえにかまってあげて、こんなことも無かったはずなのに・・・・・・」と。記憶の無いことであったが畏怖した。そのころ恨みや嫉みをもっていたのかどうか私には分からない。しかし、明らかな証拠がここにある。ダイエットクッキーとドリンク