カテゴリ:音楽一般
先日の場内アナウンスの一件で、コンサートでの余韻について、ちょっと考えてみました。つまらない話ですけれど、お付き合いくださればうれしいです。
僕が初めてコンサートに行ったのは、1971年の年末、ベートーヴェンの第九でした。中学のときでした。その後のコンサート体験は、ごくたまにオーケストラのコンサートを聴きに行くだけでしたが、その範囲での経験では、演奏終了後には間髪を入れずに拍手やブラボーが沸き起こることがかんり多く、半ば当然のことだったように記憶しています。特にマーラー・ブルックナーなどで素晴らしい演奏だと、残響のザの字も聴けない、それが当たり前でした。そういうフライングブラボーにうんざりして、僕らの仲間うちではTBS(東京ブラボーサービス)などと言って揶揄していたものです。FMで海外の演奏会の録音放送を聴くと、終了後に残響が消えるまで拍手が起こらずきちんと余韻が聴けることが、大変に羨ましく、日本での野蛮な状況と彼の地との、如何ともしがたい格差の大きさを感じていたものです。 それがいつのまにか、東京の聴衆は随分と進化しました。演奏のあと、残響が消えるまで拍手が起こらないことがかなり増えてきました。最近は、残響が消えないうちに拍手が起こることは、ソロや室内楽など小編成ものではほとんどなく、オケのコンサートでも半分以下くらいの確率かという印象です。70~80年代と比べたら、格段の進歩です。それだけ、残響を味わおう、余韻を味わおうという聴衆の意識が向上してきたのでしょう。 しかし喜んでばかりはいられません。まだまだ、理想的な状況にはほど遠いです。そこでちょっと「余韻」について考えました。 余韻を、時間軸に沿って、大きく3つに分けてみます。 第一の余韻は、物理的な音の残響です。全ての楽器の発音あるいは発声が終わってから、それらの音がホール内を反響しながら音響エネルギーが減衰していきゼロになるまでの時間。約1~2秒という時間。 第二の余韻は、音楽が終わった直後の心理的な余韻です。 これは、ある程度身体的な状態とも連動したものです。特に演奏者にとってはそう。演奏者が演奏している時には、楽器あるいは自分の声帯から音を出すための姿勢と運動が、いろいろな筋肉の緊張と弛緩のバランスの変化によって進んでいっています。これが演奏モードとすれば、発音が終わった瞬間から、それが非演奏モードにうつっていく。掲げていた楽器を降ろしていくとか、発声のための姿勢から普通の姿勢に変わっていく。指揮者で言えば、上げた指揮棒をおろしていく。こういった身体的状態の変化を含めて、心理的状態が、音楽を演奏するモードから、非演奏モードへに移行していきます。この移行が完了するまでが、第二段階の余韻です。 聴衆にとっても、音楽を聴いているモード、すなわち音楽に「耳を傾けている状態」あるいは「音楽に身をゆだねている状態」など、一種特別な心理・身体的状態から、通常のモードに戻っていく過程があるわけです。この過程が一段落するまでが、余韻の第二段階になります。 余韻の第二段階の長さは、音楽の性質によって随分ことなります。そしてこれは主観的なものですから、各人ひとりひとりによってことなります。演奏者の場合だと、その人の性格や考え方、またその日の調子によっても大分ことなるでしょう。短い場合は、たとえば喜びあふれる音楽を会心の出来で威勢良くジャンとひき終わってそのまま一連の動作の流れで楽器をおろすなどです。こうした場合には、第一段階の余韻が終わるのとほぼ同時に終わるでしょうし、場合によっては第一段階の余韻よりも早く終わってしまうこともあるかもしれません。一方長い場合には、たとえば余韻にこだわる指揮者が、マーラーの9番を演奏したあと、その指揮者にとってはこの段階が1分以上かかるかもしれないですね。 聴衆のひとりひとりにとっても、この時間の長さは異なります。その人の性格、考え方、体調、そのときの音楽から得た感動の度合い、などによって大きく異なることでしょう。 そして余韻の第三段階は、そのあとしばらくの間心の中で感動あるいは興奮が残って、気持ちが幾ばくか高揚している心理的状態のことです。聴衆の立場で言えば、たとえばコンサートホールからの帰りの電車の中で、「あ~今日の演奏はすばらしかったなぁ、今日の音楽は美しかったなぁ」、とコンサートを思い出しているときです。凄く強く感動したときには、この第三段階の余韻は数日間以上にわたって続くこともありますね。僕は、強く感動したときはしばらく音楽を聴きたくない、この余韻を大切にしたい、という気持ちになります。逆に自分にとってつまらなかったコンサートの時は、この段階は、まったくなかったりします。 この第三段階の余韻については、アフターコンサートのことなのでさておいて、演奏直後のコンサート会場ではもっぱら、第一段階の余韻(物理的な残響)と、第二段階の余韻が問題になります。 さきほど東京の聴衆は進歩してきている、と書きました。これを上の言い方で言うと、第一段階の余韻の重要性を皆がかなり意識するようになり、それが終わる前に拍手・ブラボーを始めてしまう人がかなり減ってきた、ということになります。もちろん、皆無になったというわけではなく、ときどき起こりますが、昔よりは随分減って、明らかに進歩しています。 問題は第二段階の余韻です。これは心理的すなわち主観的なもので、一人一人によって長さが異なりますので、ややこしい問題になってきます。きょうはこのあたりまでにして、この続きはまた後日にします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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