武士って?φ(=_= )?゛う~ん
先日、長宗我部氏の始まりを書いてた途中でふと「武士」の起源について疑問に思いました。(結局思考が詰まってupできません(T_T))以前から疑問に思ってたことを今日は長宗我部とは関係ないところで第1弾~。「武士」って平安時代末期に端緒を発する荘園を守るための軍事力、の解釈で良いでしょうか?そしたら古代の豪族の私兵は何て言うのかな?物部氏は軍事氏族として有名ですが武士→もののふ→物部ってズバリそのものです。豪族が自分達の財産(鉄や食料)を守るために組織したのですから目的も平安末期の武士と同じですよね。それでも武士とは呼ばない?????で、不思議なのが日本史の中で天皇自身が軍事力を行使できた期間って少ないんですよね。天皇家は軍事力はおろか蘇我氏隆盛の時代は自分たちの周りの警備さえ頼ってた‥それなのに先日NAOさんが蝦夷邸を取り囲んだ兵のことでコメント下さいましたが勇猛でなる東漢氏を凌ぐ兵力を何故鎌足と中大兄皇子が確保できたのか???????これはメッチャ不思議です。山背大兄王を追い込む兵力は調達可能だと思いますが日本書紀にも書かれているような蘇我の専横ぶりからくる豪邸(邸と言うより軍事要塞化してる)をよく取り囲めたなぁ、、と素朴な疑問です。そしてここまで考えてくるともうひとつの疑問は「白村江の戦い」この戦いに実際徴収された兵ってどんな人達だったのでしょう?(NAOさんとメールしながら考えてみました)・豪族の私兵・一般市民(戦いに参加という意味ではなく後方支援としてかりだされた人は多かったのではないかと。舟の漕ぎ手ももしかしたら兵ではなく一般市民だった???)・故国のために立ち上がった渡来人系うーん、他にもありますかね?でもこうやって誰が実際戦ったか考えると勝敗の帰趨は鎌足くらいの人物なら予想はついてたはず‥そしてもし、豪族の私兵が財産を守るためのものだったとしたら百済のための戦いで兵を失くした諸豪族の不満は相当だったでしょうね。海外との戦いは恩賞がなく後の時代でもそれが問題となって政権の命取りになってる‥それなのに何故鎌足中大兄コンビが政権を維持できたのか???もう少し言うなら何も軍事力がない天皇家がどうして白村江に出兵できたのか???うーんんんん、ウーン,o(;-_-メ;)o (ー'●_`ー;)ゥ~ンと、思考は止まったまま‥アドバイス待ってまーす♪そして次回はまたまた思考停止中第2弾長宗我部氏土佐入りを書いてみようと思ってます。☆ここでティータイム☆来週は明日から始まってしまいます(T_T)「休みが1日しかないからちゃんと家事しなくちゃ!」ではなく「休みが1日しかないからゆーっくりしよう♪」と今日はグータラモード(^^; ....お調子良く次回は!なんて予告めいたことを書いてますが明日からの1週間はメチャ忙しいのでどこまで書けるでしょうか?日記upが私にとって一番のストレス解消なんだけどなぁ(T_T)(T_T)(T_T)昨日小学校からお手紙がきました。今年の年内最後の登校は22日なのですが(2期制だから終業式って言わないんですよね。ややっこしい(‐‐))25日・26日はオープンスクールなるものを開催するそうです。第1ゾーンがお勉強編!学年ごとに分かれて国語算数の基礎基本習得だそうです。第2ゾーンが運動編!縄跳びコース、伝承遊びコース、ボール運動コースのどれでも参加可!なかなか面白い試みですよね!ちなみに三男に申込書書く?って聞いたら第1ゾーンがイヤだから行かない!そうです。さすが「オレは給食と30分休みと体育のためだけに学校へ行ってる!」と豪語してるだけある~(*^o^*) 最後に昨日の銀座で撮った写真をここにupしました。お時間がありましたらご覧になって下さいね♪さて、今日の夕食の海鮮カレー作ろうっと\(^o^)/