大友皇子生存伝説と天智天皇暗殺説
先日からの続きになりますが壬申の乱で大海人皇子に負け、自ら命を絶った大友皇子ですが生存伝説があります。これが面白いことに足跡が残っているのが近江から遠く離れた房総半島、千葉県の君津市です。乱に敗れた大友皇子は偽の首を検分させ自分は瀬田川から難波、尾張、下田、相模に辿り着き最後には君津に入って御所を作ったとされています。その御所のあとにたったのが現在の白山神社、その後大友がこの地に逃れたことを知った大海人に屈する形でここで自らの命を絶ちます。その大友の亡骸を葬った古墳も残っていますし、彼の妻である藤原鎌足の娘「耳面刀自」と従者を祀った十二柱神社、彼の正妃である十市皇女を祀った筒森神社があります。(十市皇女に関しては哀しい伝説が残っていて彼女は難産のため亡くなったとされています)不思議なことに大友の生存伝説は他にも残っていて、愛知県名古屋に彼の陵と言われるオトモ塚、神奈川県伊勢原市に墓と伝えられる石塔が残っています。まぁ、ここではその伝説の真偽のほどは置いといて、こういう伝説が各地に残っていること自体が面白いですよね。大体こういう伝説は時の権力者に抹殺された人への哀悼で生まれる場合が多くありませんか?そう考えると日本書紀でどう繕おうとやはり天武が簒奪王朝であった?印象は免れませんし壬申の乱に対する民の感情は大友皇子に同情的だったのかな?なんて思います。民間伝承の話になると先日書いた「扶桑略記」には不思議な記載があります。日本書紀に拠れば天智天皇は近江京で亡くなったと記載されていますが、「馬で山科に行ったが行方がしれない、履いていた沓(くつ)が落ちていた場所を陵としよう」とあります。これは謎な文じゃありません?死んだのか生きているのかもわからないこの文章から暗殺を指摘する人もたくさんいます。暗殺犯が大変力がある人でその人が暗殺したことを書けなかった…真実の話ができるようになるまでその一族の力が弱まるまでの時間を待たなくてはならなかった…だから成立年代が平安時代に入ってから(王朝交代があってから)成立したこの扶桑略記には正史では抹殺された真実を記した、ってな具合です。こういう話は余程の発見が出てこない限り真実はわかりませんが、大友皇子に対する同情の念はもしかしたら暗殺された父天智天皇に対する気持ちもあるのかな?と思ったりもしますがこの時代に民が朝廷(大王家)を敬ったり同情したりした?って疑問もありますし、逆に情報が通じてなかったのにどうして遠く離れた国に伝承が残っているのか不思議なところもあります。先日の「鬼の城伝説」以来各地の伝承に興味を持ち出した私にとっては好奇心を刺激される話題です♪☆ここでティータイム☆今日も寒いです弊社は冷房の設定温度が何と21度、、これは本当に寒いです。先週の土曜も頭が痛いを通り越して頭痛が痛く、首はこってて、四十肩もズキズキ痛い…これって毎年そうなんですが冷房病の典型的症状です。隙を見て設定温度を24度に上げるのですがこれがすぐバレる社長と違う部屋で仕事したいよ~って感じです。何か良い対策がありますでしょうか????ワールドカップ今日、明日と試合がお休みですね!ここでたっぷり睡眠をとっておかなくては!しっかし、ロナウドを目覚めさせた日本には風当たりが強かったりしてこれで通算得点の新記録ですね!準々決勝はフランス大会決勝再びのフランスvsブラジル!ジダンがゴールを決めて盛り上がってるフランスと同じく決めるべき人が決めて盛り上がってるブラジル。ロナウドやロベカルは敗戦を忘れてないでしょうし、フランスはジダン引退も絡み見逃せないですね~!!!!!!!!!