母の急病(その2)
一旦退院した母を見舞った翌日の月曜日。普段の日常を取り戻したかのように見えた。午前11時過ぎ、自分のデスクで仕事中、脇に置いてあった私の携帯が鳴った。電話の主は嫁である。仕事中であることがわかりきっている時間帯に下らない用事で電話をかけてくるような嫁ではない。一瞬にして嫌な予感が広がった私は、トイレに立つフリをして電話に出た。「お義母さん、またちょっと具合が良くないねん」電話の向こうの嫁の声からは明らかに深刻な様子が窺える。「どないしたん?どうなってんの?」不安で声がかすれているのが自分でもわかる。とにかく吐き気と熱がひどくて嫁の車にも乗せられないような状態であるから、取りあえず最寄の病院に連絡だけしておいて救急車を手配するという。病状がわかったら再度電話するように頼んで一旦電話を切り、仕事に戻ったのだが気が気ではなく、とても手につくような状態ではなかった。午後3時頃、再び嫁からの電話。最寄の病院での診察の結果、細菌性髄膜炎という病気に罹っている可能性が高く、その病院では現在入院できる態勢になっていないので、市内の病院に転送することになった、とのこと。母はほとんど意識が無い状態で、かなり危険な状態であることが告げられた。とにかくすぐに家に帰ると伝え、会社を早退させてもらい、急ぎ帰路についた。午後5時過ぎ帰宅。嫁は一旦帰宅しており、病院へは父が付き添っているという。取りあえず着替え等すぐに必要なものを持っていった方がよいということで、実家の何処に着替えがしまってあるのか要領を得ないので、行きしなにスーパーに寄って適当に購入した。嫁は自分の実家で待機して子供の面倒を見るように言い、私は単身病院へと向かった。病院への道は一番道路が混む時間帯であり、中々進むことができずに苛々する。しかしここで私が事故など起こしたらシャレにならないので、何とか心を落ち着けながら慎重に運転をする。ようやく病院に辿り付き、受付で母の病室を尋ねると、ロビーから私を呼ぶ声がする。病院の近くの会社に勤める義父が連絡を受け、心配して駆けつけてくれたらしい。挨拶もそこそこに並んで5Fの病室に向かう。義父の口調もあまり穏やかではない。更に不安が広がる。スタッフルームと直結した母の病室は、集中治療室の雰囲気を漂わせている。意識もなく、苦しそうにうめく母。傍らに所在無く立っている父。やがて担当医に呼ばれ、別室へと移動した。「ご主人にも話しましたが、何が起こってもおかしくないということは認識して下さい」開口一番、担当医は私にそう言った。目の前が真っ暗になる。何で急にそんなことになるのか、まったく理解ができなかった。細菌性髄膜炎の疑いが強いものの、現時点ではまだ確かなことは言えない。髄液の検査で脳に入ったばい菌の種類を特定するのに約2日かかり、それまでは一般的な抗生物質を点滴で投与するしか方法がない。聞きなれない「細菌性髄膜炎」という病気は、主に脳にばい菌が侵入して炎症を起こすことによって発症する。異物に対する脳周辺の防御作用は人間の身体の中でも最も強いものであり、通常の健康状態であればまず発症することはないらしい。従って主に罹患する年代は幼児か70歳以上の高齢者に多い。要するに抵抗力が弱い者が罹りやすいということである。菌の種類が特定できれば決して難しい病気ではないが、現時点ではあらゆる可能性を否定できないという。この場合の可能性とは、回復しても後遺症が残るかもしれないということ、そして死である。何故脳に細菌が入ってしまったのか原因はわからない。先の頭を打ち付けたこととの因果関係も不明である。それにしても先に一度病院で診察してもらった折、高熱と血液の炎症という要素は既に把握していたのである。担当医の説明を聞きながら、後悔の念が一気に押し寄せる。そして考えたくない最悪の事態ばかりが浮かび、その度先の病院で詳しく原因追及しなかったことが悔やまれる。聞きたくない、認めたくないような言葉ばかりが頭に残る。気が付けば意識せぬ間に大粒の涙を流していた。「どうかよろしく頼みます・・・」何とか言葉を振り絞って言えたのはこれだけであった。いずれにしても脳の炎症に対しては先の異物が侵入した際の理屈と同じく、抗生物質も非常に効きにくい故にかなりきつめの薬を使用せねばならず、また治療法も薬餌療法で手術や何やでどうにかなる種類の病気ではない。少なく見積もっても完治までには1カ月はかかるらしい。義父に礼を述べて引き取ってもらい、父とふたり病室で横たわる母を見下ろしている。呼吸は浅く、早い。解熱剤が効いて熱は下がったものの、そのためにかなりの汗をかいている。この病院に運び込まれてもう数時間が経過しているが、いまだ昏睡状態のままである。しばらく母を見守っていたが、父が食事に行かないかと言う。見れば時計はすでに午後9時をまわっている。昼前に母が倒れてから父は今まで何も食べていないのだと気付き、食欲はなかったが一緒に病院の外に出る。看護士には携帯電話の番号を告げておいた。すでに最悪の事態に備えて冷静に頭がまわっている自分に驚く。市内とは言え外れに位置する病院の周辺には店らしきものが何も無い。ようやくおでんの提灯が下がった店を見つけて中に入る。場末のスナックみたいな店内に、たったひとつのテーブル席に爺さんが腰掛けてテレビを見ている。その爺さんがこの店の主であることに気付くのに暫くかかった。父はおでんを3品とやきそばを注文し、私はやきそばだけ注文する。非常時で食欲もなく、味などわかりそうにもないのだが、出てきたやきそばがやたらマズかったのがおかしかった。そのショボくれた店でマズいやきそばを啜りながら、今後の段取りについて相談する。どちらにしても私と嫁と父だけではどうしようもないので、母と一番親しい叔母に助けを求めることにした。病院の公衆電話から叔母に電話して母の状況を伝えると、非常に驚いた様子であった。取りあえず一週間は予断を許さない状況であるので、父、私、叔母でそれぞれ付き添うよう段取りを行い、必要な身の回りのものを整理してまとめ、準備することにした。少々不安ではあったが、長期の入院となると今手持ちのものだけでは到底足りないので一旦父と共に実家に戻ることにした。父は明日行くはずだったゴルフの約束を断らなければならないとしきりに気にしている。そもそも先に退院してからいくばくもない日の約束を何故断っていないのか。今日のような事態にならずとも病み上がりの母を置いてゴルフなぞに行く気であった父に無性に腹が立ち、なじる。父は何も答えなかった。実家に到着してまず押入れを開け、寝巻き、下着、タオル各種を詰めるだけ詰めた。父はゴルフの連絡をしているものの、電話が繋がらない。呼び出しはしているのだが誰も出ないらしい。「そんなもんほっとけ、電話しても出ないんやからこっちの義理は果たしてるやろ」再び苛立った私は父にそう言い放ち、出発を促した。時間は夜の11時を過ぎている。道は最初に来たときとはまったく交通量が少なく、スムーズに進んでいる。車内は無言で、カーステレオから場違いのポップスだけが空しく流れている。再び母の病室の中。看護士に荷物を入れる場所を教えてもらい、着替えその他をしまう。母は眠っている。看護士の話では、取りあえず呼吸も血圧も安定しているとのこと。「心配せんでゆっくり休んどき」苦しそうに何度も身をよじる母を見下ろし、声をかけたが反応はない。またもや最悪なことが頭をよぎると、言葉の最後の方は嗚咽が漏れそうになるのを必死にこらえた。「じゃぁ何かあったらすぐに連絡して」そう父に言い残し、病院を出た。深夜の寒さが身体にこたえる。病院の駐車場の中で車のエンジンをかけ、車内が暖まるのを待つ。携帯で嫁に電話をして経過を報告する。今夜はそのまま実家に泊めてもらうように言い、明朝モーニングコールだけ頼むと伝えた。自宅に帰り着き、シャワーを浴びて早々に床についたが中々寝付けない。これからのことを考えるとやはり気が重かった。一週間先のことがわからない。どうなるのか、それを考えても悪い結果しか出てこない。「なるようにしかならないのだ」そう言い聞かせて無理矢理眠った。何が起ころうとも、時間だけは正確に過ぎていく。翌朝は普段と何も変わらなかった。母がいなくなるかも知れない、その可能性があることを除けば・・・。