良い授業をすれば点が上がるという幻想
非常に簡単な話だが、点を取るということはとりもなおさず「生徒自身がテストで正しい答えを書く」事だ。成績のよい子たちに取って、「うまい授業」は実はたいして重要ではないと思う。ここで言う「うまい授業」というのは、ひとつの番組のようによく構想が練られていて、聞き手を飽きさせない、もっと言えば「やる気の出る」「理解できる」授業を指す。この「やる気」や「理解」がくせ者で、塾業界が世の親子にたいして使うひとつのまやかしだと思っている。どれだけ講師が錬磨して「うまい授業」を展開したとしても、恐らく点はほとんど上がらないだろう。中にはそれをきっかけとしてその科目が好きになり、結果として点数が上がる子がいるかもしれないが、そんなのは本当に奇跡に近いごく少数で、そんな「ほんの一握り」のために、「それ以外の絶対多数」にとって必要な授業が出来ていないのであれば、本末転倒だと思う。例えば1次関数で式を作る分野について。2つの座標が(1,2),(3,4)のように与えられ、それを元に式を作る方法は一般的に2つある。連立方程式を用いる方法、変化の割合を用いる方法だ。たいていの授業では、この2つを説明して終わる訳だが、本気で100点近い点数を取らせるには、それだけでは足りない。でもそれは、もっと特殊な方法を教えるという意味ではなく、特殊な「状況」までを身をもって体験させておくということだと思う。このような式を作る問題ひとつとっても、仮にx座標0のときや、y座標が0のときなど、イレギュラーな問題はいくつも考えられる。平均点を求めるクラスならこんなのは出来なくても良いが、あくまでも成績がよい子に限って言えば、彼らは100点を求めているのだから、特殊な状況の問題を取れるようにしなければいけないのだ。こういった特殊な状況の問題は、授業の中で全て追っかけるのでは意味がない。俗に言う「引っかけ問題」とは、本来はこういった問題ではなかろうか。「普通のやり方を知っている」だけではついつい引っかかってしまうような問題、ついつい不安になってしまうような問題まで網羅していかねば、100点を取らせることはできない。しかし、こうした問題はそもそも時間の限られた塾の授業で扱うには困難だし、何より「まず引っかかってみること」が、習得への第一歩だと思うと、やはり「自分でやらせてみる」事が最も重要だということになる。当塾では、英数は90分授業としている。これは90分という時間の中に、「自分でいくつものパターンを解いてみる」時間を組み入れる必要があるからだ。説明自体は凝縮すれば30分程度か、場合によってはもっと少ないかもしれない。それ以外の時間を、生徒自身に解かせ、そのペンの動きひとつひとつを見て指導することに割くのだ。ただ聞いているだけの子に比べて、圧倒的に「デキル」ようになるのは当たり前だ。また、自分で解く時間を取ることには授業の運営上非常に重要な意味があって、「解かせている間は寝ない・しゃべらない」のである。もちろん、一定水準以上の子はほっといてもしゃべらない。寝ない。それでも、なおこういった「解く作業」があれば、より授業に対する集中力が高まり、経験の浅い講師でも運営がしやすくなる。また、講義中心になるとどうしても「もう分かってるから聞かない」とか、「まだ出来ていない・問題を読んでもいないから聞いても分からない」なんていうケースを排除できる。デキル子にはさらに別の問題を与えてやらせるし、デキナイ子はこの時間に個別に指導することができるのだ。こうして「自ら手を動かし解けるようになった」生徒たちは、自分で解いて答えを導き出すことが当たり前になる。そして自分で点数を上げていく・・・という正のループができあがることになる。特に成績上位層をターゲットにすると、逆に子どもたちや保護者の方からの要求がシビアになる。だからこそ、通り一遍の「うまい授業」など必要なく、「自分合点を上げるために、100点を取るために」必要な場を提供する必要が出てくるのだ。それを、ある時は自習室がその責を負い、ある時は授業時間内の演習が負う。そんな塾にかいち塾はなっている、と思う。