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テーマ:坂本龍馬と海援隊(339)
カテゴリ:龍馬暗殺の謎
昨年12月に書いた
「西郷と勝は一般的に知られている海軍塾生を引き取る直前に初めて顔を合わせたのではなく、その4年も前に奄美大島で会談していた。」という異説の続きとなります。 今度は西郷と龍馬の初顔合わせですが、前回紹介したように。『追賛一話』では海軍塾解散の2ヶ月前の元治元年(1864年)8月中頃龍馬が30歳の時に勝の使者として、京都で面会したのが最初とされています。 ところが、沖永良部島の伝承を取材した鹿児島新聞社の記者田中鉄軒の「絶島の南洲」に次のような記載があります。 「南洲が(沖永良部島から)帰藩する前、二十余日の事、土洲の志士・坂本竜馬が一汽船にて寄港した。南洲と徹宵語り明かして、翌朝、未明に坂本は鹿児島目指して解麓した・・・たしかに(南洲の)帰港の相談であったと伝う。」 田中鉄軒は「仮に坂本でないとしても他藩の何人かがこの絶島の偉人を遠訪したのであったろうと思うから、一説として他日の考証に資する。」 としています。 吉井幸輔が「胡蝶丸」に乗って沖永良部島に西郷を迎えに行ったのが元治元年(1864年)2月21日。となるとこの伝承では同年の1月下旬ごろに西郷と龍馬の初会談が沖永良部島で行われたことになり、通説よりも半年ほど前に顔を合わせていたことになります。 さて、この頃の龍馬の動向ですが、 ○前年12月27日に将軍家茂の上洛船翔鶴丸に勝と共に乗船して品川を出港。(勝の手紙より) ○元治元年1月8日に天保山沖に投錨し大阪上陸。 ○1月中旬海軍操練所金策のため上京。 ○2月14日外国連合艦隊長州攻撃調停のために長崎に出張する勝に千屋、望月、近藤と共に同行し兵庫出帆。(「幕末日記」) といった状況ですので、上記で言うところの沖永良部島に行ったという頃には京都にて金策中で、河田小龍の製塩事業資金獲得の協力をしていたとされています。 これらの資料から見ても、龍馬がこの頃に沖永良部島に行くことは不可能であると思われますので、やはりこれもまた一つの「異説」かなと思います。 ただ、勝の江戸償還命令の際に西郷が海軍塾生を引き受けた話には、確かに唐突感があり「以前から面識があったのでは?」と考えたくなる出来事ではあります。 温情からなのか・・・、計算があったのか・・・。まだまだ「西郷どん」を含めて「薩摩藩」をどう捕らえればいいのか迷っている所です・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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